女性の顔について書いてみる。男が女性に会ったとき、一般に特別な美人以外は初対面で顔が気に入ることは少ないと思う。むしろたいてい違和感を覚えるものなのだ。ところが何度も会ったり見たりしていると、その顔に慣れてくる。慣れてくれば違和感はなくなり、好感が生じてくる。こういう言い方は失礼かも知れないけれど、たいていの女性は特別美しいわけではない。しかしどんどんカップルが生まれている。彼氏がいない女性というのは顔の問題ではなく、性格とか何か別の問題によるのではないか。慣れてくると彼女の顔が魅力的に見えてくるのだ。
以前美術家の作間敏宏さんが、インターネットからたくさんの裸の画像を集め、それらを100人分重ね合わせて1枚の作品を作ったときのことをこう語っていた。(id:mmpolo:20070302)
胸が悪くなるほどの枚数のヌード("ネイキッド"というべきですね)写真を集め、それを一枚づつ重ねていくという単純作業に終始した今回も、あらためて個人や個性のことを考えました。顔のときと同じで、それぞれは個性的な裸像が、重ねられていくにつれ徐々に個性を剥奪され、ついには、平均や標準としての"美しさ"を伴いながらも、個性らしきものがすっかり消去された図像としてあらわれてきます。この作業工程は、個性というものを、単に、平均や標準からの部分的な"乱れ"か"歪み"でしかないものとして再定義するようであり、それを受け入れるように僕を誘惑するようでもありました。
それに対して私も書いた。
たとえばCGで描かれた女性の顔は全く魅力というものが感じられない。現実の美女の顔と比べたとき、CGで描かれた顔には歪みがない。翻って現実に存在する美女は皆標準からみれば歪んで、あるいは乱れて、片寄っているのではないだろうか。その歪みが個性であり、美しさ、魅力であるように思われる。
初対面の女性の顔は、単純に標準からの乱れ、歪み、逸脱、ズレと感じられる。未知からくる違和感だ。それが見慣れるに従い、ところを得てくるのだ。落ちついてくる。既知の見慣れた顔に変わる。もう乱れや歪みではなくなる。するとそれらは魅力や美しさに変わってくる。その結果、すべての女性の顔は美しいと感じられるようになってくる。
もう少し具体的な例をあげる。顔にアザやイボまたは大きな黒子がある女性がいたとする。初対面ではそれらは強い違和感のもとになるだろう。しかし何度か見ているうちに見慣れてくる。見慣れると違和感のもとだったアザやイボなどが、自然に顔に溶け込んでいる。もう特殊ではなくなっている。乱れや歪みではなくなっているのだ。この時どんな女性も美しい。