山田宏一『映画とは何か』を読んで(その1)

 山田宏一『映画とは何か』(草思社)を読む。23人の映画人へのインタビュー集。内訳は、映画監督12人、女優4人、映画評論家3人、その他作曲家やプロデューサーなど。男優は俳優・射撃インストラクターとしてトビー門口ひとりだけ。外国人が14人。
 主な対談相手はフランソワ・トリュフォージャンヌ・モロー、コスタ・ガヴラス、アンジェイ・ワイダ淀川長治ミレーユ・ダルクカトリーヌ・ドヌーヴローレン・バコールなど錚々たるメンバーだ。
 アンジェイ・ワイダとの対談で、クロード・ルルーシュがズーム・レンズの新しい使い方を2つ発見したとワイダが言う。ルルーシュはズームを使って俳優の演技を撮る。もうひとつは、焦点距離の深いレンズを使うと、遠くも手前もぼんやりとしかうつらない、しかもそのおぼろなところがあざやかな色になると。

−−ズームと望遠レンズの効果を最大限に発揮したといわれる『東京オリンピック』はごらんになりましたか。
ワイダ  あれは傑作だったな。監督は誰だっけ……そう、イチカワ(市川昆)。よかったな、まったく。あれこそ新しい美学でね。その後、あれにかなうものは見当たらないな。
−−『東京オリンピック』のキャメラのテクニックには、さすがのクロード・ルルーシュもちょっとおどろいていたようですよ。
ワイダ  あの手法は、近ごろみんなが拝借している。(笑)

 市川昆の『東京オリンピック』は40年ほど前に見たきりだ。当時政府のお偉方から分かりにくいとクレームがついて、別の監督が再編集したのではなかったか。何がすごいのか全然分からなかった。今度ちゃんと見直してみよう。
 セックスを描き続けているポーランド出身のフランスの映画作家ヴァレリアン・ポロヴズィックとの対談。

−−あなたの映画を見ると、女性の肉体の美しさ、とくに陰毛や性器をキャメラで正視したときの、身ぶるいさせるような美しさがじつに感動的です。
ポロヴズィック  たしかに、おっしゃるとおり、女の肉体の一部、とくに局部のクローズアップも、女のポートレートを形成する重要な要素ではあるのです。
 陰毛や性器を見せることはいわゆる禁忌(タブー)として、道徳の名において最も長いあいだ隠された部分でした。それが文明だなんていう気は、もちろん、ありません。古代ギリシャの文明はもっと開放的で自由でした。しかし、いったい、いつから、こんなばかなことになったのか。つまり自然にあるがままの美しさを持っている部分が、なぜ局部という名において隠されねばならなくなったのか。その問題をかなり直接的に提起してみたのが『インモラル物語』なのです。誰がいったいそんなタブーをつくったのか? いつだって、それを禁じた人間がいちばんそれに関心を抱いていて、自分だけは見ても、他人には見せないように抗議し、反対するものです。こうした検閲者に対する反抗が映画のモチーフの一部になっています。しかし、それよりも、わたしは女性の肉体の隠された部分の美しさを心から賛美してみたかったのです。といっても、わたしは女性の局部ばかりをうつしているわけではありません。すぐそのあとには、女性の顔の美しさをクローズアップでうつしだしています。というのも、わたしは性行為を局部のクローズアップだけでとらえるポルノ映画を嫌悪するからです。ポルノ映画は醜悪そのものです。それはあらゆる次元で醜悪なのです。まず、ポルノ映画の女はほとんどみな醜い。そして、映画のアイデア、シナリオもひどい。演出もひどいし、映像もきたないし、モンタージュも最低です。それは醜悪さのシンボルとさえ言っていいくらいです。

 日本では『インモラル物語』をノーカットで見られないのが残念だ。
 フランスの暗黒街映画の監督ジョゼ・ジョヴァンニとの対談で、アラン・ドロンに触れている。

−−『暗黒街のふたり』のアラン・ドロンはどうしてもまともな社会に復帰できない人物を演じていますね。
ジョヴァンニ  アラン・ドロンのあの眼を見ればわかるように、彼は生まれながらのアウトサイダーであり、犯罪者です。とてもまともな社会のなかで生きていける人間の眼ではない。わたしは、あの映画で、アラン・ドロンのような〈犯罪者〉がたとえ社会復帰しようとしても決してできないであろうことを示したのです。

 アラン・ドロンについては、塩野七生の手厳しい評を思い出す。塩野は「あの美しさは、下層階級の男のものである」と『男たちへ』(文春文庫)で書いている。

 アラン・ドロンは私の好きな俳優ではない。男としても、好きなタイプには入らない。鼻から下が卑しいのである。(中略)
 アラン・ドロンは美男である。だが、あの美しさは、下層階級の男のものである。気品とか品格とかいうものとは無縁の、美男なのだ。魅力は、たしかにある。新人発掘では有名なイタリアの映画監督ラトゥアーダに言わせれば、有望な新人を見つける場合の眼のつけどころは、その新人の眼なのだという。眼がよければ、スターになる可能性も大ということなのだろう。この尺度に従えば、アラン・ドロンは、スターになること必定の眼の持ち主だと、私も思う。しかし、なぜかかもし出す雰囲気が卑しい。だからこそ、下層の男を演じたときの彼は見事なのだろう。「太陽がいっぱい」のアラン・ドロンは傑作だった。

アラン・ドロン、下層階級の美男(2007年6月28日)


※この項続く