美人とは何だろう。絶世の美女が存在する。エリザベス・テイラーとかオードリー・ヘップバーンとか吉永さゆり、夏目雅子、後藤久美子、でもそのような美人ではなく、普通に身近にも美人は存在する。美人とはなんだろう。
職場にも趣味のサークルにもクラスにも美人がいる。女性が数人いればその中に美人がいる。美人とは相対的なものなのか、少し違う気がする。集団があればその中に美人が存在するのだ。集団が大きくなれば小集団で美人とされていた彼女は普通の女性になってしまうかもしれない。そういう意味では絶対的なものではなく、相対的なものだろう。だが、違う気がするというのは、重点が違うのだ。
美人が相対的なものだということを言いたいのではなく、集団があればそこに必ず美人が存在するということを言いたいのだ。
もう一つの視点がある。目的によって美人の基準が異なることを私たちは経験している。映画スターには最高の基準が適用されるだろう。クラスの同級生にはそこそこの基準が適用され、恋人に対する基準はもっと低いのではないか。たぶん恋人には美以外の要素が要求されるから。
風俗嬢に対する基準は一番低いに違いない。経験ないから明言はできないけれど。飲み屋の女性に対してもあまり要求は高くないから。
状況によって基準が変わることは、昔サトウサンペイの4コマ漫画に取り上げられていた。登山している青年たちが「山ガール」たちと親しくなり、彼女たちの魅力に惹かれるが、下山するとその魅力が消えてしまうというマンガだった。
さて、ここから猫の話になる。子猫はかわいい。ペットショップで見ていても見飽きない気がする。その子猫を育てて大きくなると、もうやたらにじゃれついてくれなくなる。子猫のときはかわいかったなあと思う。そして昔の小さかったときの写真を取り出してみると、子猫はただかわいいだけなのだ。それに対して大人猫は魅力的だ。その魅力的な大人猫の顔を見る。そこにあるのは知性なのだ。知性が魅力的なのだろう。
話を人間に戻すと、猫の知性にあたるものは人間では才能ではないか。それは狭い定義に収まらない。美術に関する才能でもスポーツの才能でも、家事に関する才能でも変わらない。もちろん知性そのものも同じだ。才能が人を魅力的にする。才能が美と十分に張り合っている。