村上靖彦『客観性の落とし穴』を読む

 村上靖彦『客観性の落とし穴』(ちくまプリマ―ブックス)を読む。

 大学の授業で学生から「先生の言っていることに客観的な妥当性はあるのか」と質問されることがあるという。村上は、「客観性」「数値的なエビデンス」は、現代の社会では真理とみなされているが、客観的なデータでなかったとしても意味がある事象はあるはずだ、という。客観性だけに価値をおいたときには、一人ひとりの経験が顧みられなくなるのではないか、そのような思いが湧いたことが本書執筆の動機だという。

 近代の学問は森羅万象を客観化しようとするプロセスとして生まれた。しかし客観化を極度に推進していったときに切り落とされたものがある。

 学力偏差値は1957年にある中学校教員によって考案された。教員の進路指導に信頼できる指標を導入することが目的だった。ところが偏差値そのものが勉強の目的となっていく。村上は、人間を数値化して比較することで、私たちは一体何をしていることになるのかと問う。

 統計は世界のリアリティについてのある程度の傾向を示す指標と見なされていたが、次第に統計が世界の法則そのものであると考えられるようになった。統計は事実に近い近似価ではなく事実そのものの位置を獲得するのだ、とされる。

 それに対して村上は「語りと経験」を重視する。

 

 私が特に大事にしているのは、個人の「経験」を語り出す即興の「語り」である。それは聞き手に、生き生きとしたものとして迫ってくる。(……)生き生きとした経験こそが、客観性と数値によって失われたものだ。それゆえ語りのなかに保存された生き生きとした経験をキャッチする方法を探ることは、科学において失われてきたものを取り戻す試みである。

 

 統計学は、たくさんのデータを集めて数学的な処理をすることで、出来事という本来偶然かつ個別的に生じるものから法則性を導き出す方法だ。これは学問の重要な成果だ。私たちの生活は、統計学によって偶然を統御することを抜きには成り立たない。(……)統計学は偶然の出来事に正面から直面するのではなく、少し目をそらして外から眺めることで飼いならす。しかし、偶然との出会いから生まれる唯一無二の経験や説明を超えた変化を、統計学は考慮しない。

 

 数字による束縛から脱出する道筋を本書は探してきたが、それは数字や客観性を捨てるということではない。繰り返すが、問題は、客観性だけを真理として信仰するときに、経験の価値が切り詰められること、さらには経験を数字へとすり替えたときに生の大事な要素である偶然性やダイナミズムが失われてしまうことだ。「客観化と数値化だけが真理の場ではない」ことを理解する方法が問われている。

 

 

 

 村上は長年にわたって、看護師や子育て支援の対人援助職、ヤングケアラーや精神障害の当事者、ろう者やアイヌの出自を持つ人など、社会的な困難の当事者にインタビューを行ってきた。その具体例が多数引用されている。それらを読むと、村上の「生き生きとした経験こそが、客観性と数値によって失われたものだ」という主張がよく分かった。

 教えられることが大きい優れた書だ。題名が堅いがきわめて興味深い内容だ。いろいろ反省させられたのだった。ちくまプリマ―ブックスは若者向けのシリーズという印象が強いが大人にこそ勧めたい。