養老孟司『形を読む』を読む

 養老孟司『形を読む』(講談社学術文庫)を読む。副題が「生物の形態をめぐって」とあり、解剖学者の立場から生物、とくに動物の形態を論じている。『バカの壁』がベストセラーになった解剖学者の3冊目の著作で、解剖学という基礎学をじっくり研究した人だから、視点が独特で常識的な見方が覆される。大ベストセラーを生み出したのもまぐれなんかじゃなくて深い見識から生み出されたのだろうということがよく分かる。形態=形が単なるそれだけのものではなくて、哲学的な根源的な意味を持っているのだ。

 形の意味は、しかし、形を見る立場を決定する。形は、もともと無限の「客観的」属性をもっている。そのうち、どれを取り上げるかは、見る人の観点による。その観点を定めるのは、「意味」である。たとえばハンソンは、それを観察の「理論負荷性」と表現する。
 感覚は、一般に、外部からの刺激によって、本人の意志にかかわらず働いてしまうところがある。それが、たとえば視覚の「客観性」の由来であろう。しかし、私が、死体を目の前にして困ったように、完全に客観的な観察など、おそらくありえない。
 観察の「理論負荷性」とは、すなわち、形態の意味を認めることである。われわれは、まったく「無意味」な形態について、論じることなど不可能である。ロールシャッハ・テストは、それをよく表している。ところが、形態の意味とは、テストが示すように、考えようによってはまさしく、「主観」である。すなわち、観察している当人の、頭の中に存在するものである。
 この点が、おそらく、ここでしたような「形態の意味を客観化」する努力を、妨げてきたと思う。科学は、主観を殺し、客観を扱うものだからである。
しかし、主観とはなにか。主観が恣意的なものだということは誰でも知っている。しかし、それは脳の機能である。すでに述べたように、ヒトの脳は、きわめてはっきりした、構造上の共通性をもっている。機能的にも、それは、たとえば、「主観をもつ」という、共通の機能を示す。主観の内容がなにか、については、いちいち吟味すれば、ヒトの個体の数だけあるといってもよかろう。しかし、ヒトが「主観をもつ」、という点については、ほとんど例外がないであろう。

 養老の最初の著作『ヒトの見方』が出たのがもう35年も前になる。とても面白く読んだが、その後『唯脳論』と『バカの壁』くらいしか読まなかった。解剖学という特殊な視点が知らなかった世界観を教えてくれる。

 

 

形を読む 生物の形態をめぐって (講談社学術文庫)

形を読む 生物の形態をめぐって (講談社学術文庫)