ジョン・ル・カレ『スパイはいまも謀略の地に』を読む

 ジョン・ル・カレ『スパイはいまも謀略の地に』(ハヤカワ文庫)を読む。2020年に亡くなったル・カレの最後から2番目のスパイ小説。さすがにいつも通りの人間性を掘り下げた見事なスパイ小説だ。読みながらいつも通り圧倒された。

 だが、私には本書を簡潔に要約することができない。代わりにAmazonのカスタマーレビューに素晴らしい紹介を見つけたので、その三好常雄さんのレビューを勝手に引用する。三好さんは★5つを付けている。私にはここまで優れたレビューは逆立ちしても書けない。

 

ジョン・ル・カレ氏が2020年末に亡くなった時の新聞各紙の大きな扱いに驚いたことはよく覚えている。ル・カレは冷戦時代のスパイ小説作家で過去の人と思っていたのだ。

英国では「おそらく20世紀後半の英国における最も重要な小説家として記憶される。」(作家イアン・マキューアン氏)、「ディケンズやオースティンと同様にみなされる作家」(英紙フィナンシャル・タイムズ)との評価を得ている。と毎日新聞は書いた。

2023年2月に早川書房(文庫)から出版された本書(英語タイトル『Agent Running in the Field』2019年)も88歳の御老人が書かれたと思われない、複雑なプロットと叙述の瑞々しさで我々を魅力する。だがこれが氏の最終作でなく、2021年に書かれた『シルバービュー荘にてSilverview』(未訳)が遺作となったとあるから只々恐れ入るしかない。

ル・カレにとってソ連の崩壊などは問題にならない。スパイ活動は決して終わらない。「要するに、誰が引き継いで(この建物の)明かりのスイッチを入れるかという問題なのだ。それはいつまでも続く」 と御本人が言っている(訳者あとがき)。『歴史が終わった』と説くフランシス・フクヤマの予測に反して、世界は中国もプレーヤーに参加する、冷戦時代を上回るスパイとデマ工作に覆われているのだから。

物語の背景はブレグジットで揉める英国(2016-2018)。これに嫌欧州に凝り固まった頭の弱いトランプ米大統領KGB出身のプーチンに簡単に籠絡されて、大統領選挙でのロシアの介入はなかったと認め、ウクライナ侵略には中庸な態度を取り、パリ協定を離脱した。その結果、イギリスと欧米の緊密なスパイ網にほころびが入り、ロシアおける「英国優位」も薄れてしまったという時代。

主人公はナット・ナサニエル47歳、25年に及ぶヨーロッパ各地でのスパイの「要員運用者(agent runner)を務めた後、本国に戻ってきたが、組織から解雇されようとしている。スパイ活動も様変わりした。イギリス情報局秘密情報部(S1S)「ロシア課」の職員は平均年齢33歳、ほぼ全員が博士号を持つコンピュータの達人である。秘密裏にスパイと会って文書を受け取り現金を支払うと言った古典的な活動は時代遅れとなり、ナットの居場所はない。かろうじて臨時に与えられた仕事は、<ヘイヴン(安息所)>と呼ばれるロンドン支局の全く機能していない下部組織の所長に収まること。

しかしあらゆる困難を乗り越えてきたナットのこと、ヘイヴンの有能な若手職員フローレンスの計画を採用して、ロンドンに住むオルガルヒのウクライナ人の豪邸に盗聴器を仕掛け、資金の流れを突き止めるという案を上司に提案する。だが何としたことか。その上司は女性男爵である妻を通してそのウクライナ人と関係し、政界人たちのマネーロンダリングに手を貸していたのだ。泥棒に泥棒を取り締まれとする計画は当然葬り去られる。

ここまでは単なる前書きに過ぎないのだが、本文の半量が費やされる。ぼんやりと読んでいる向きには退屈だが、後半部の伏線が数多く出されていて、その細部を記録しているかどうかが、残りを楽しめるかどうかの鍵となる。

これをきっかけに、ナットは新たに手を伸ばしてきたロシアのスパイ網に巻き込まれることになる。新事態に関わる諜報部幹部たちの姿勢や、トランプ米国との「特殊な関係」の再構築が挟み込まれ、話は一挙に政治化する仕組になっている。従ってこれまでのスパイ小説のような冒険活劇、殺人などは登場しない一種の心理ゲームとなっている。だがその反面で、こういったことを乗り越えてしまう古典的スパイの活躍を描いてみせるのが特徴だ。

いくら電子情報が発達しても、生きた相手がいなくなるわけではない。ナットはこれまでに築き上げてきた個人的な信頼関係を生かして、面倒をもてきたロートルの二重スパイたちに会い、様々な情報を得る。相手の琴線に触れる指揮命令関係を超えた個人的な追想が役に立つ、スパイだって人間なのだから。

もひとつの特徴は、スパイという職業の「働きがい」が問われていること。古典的スパイは報酬にすがったが、若いスパイは個人の信条が金銭欲を上回る。スノードン事件が告げるように、自分が諜報機関で知った情報があまりにも、敵国ならず自国の自由までを拘束するような内容なら、それを敵国に開示してしまうこともいとわない活動だ。民主主義者ナットはこういう人物を庇護する役目を引き受けてしまう。

こういった筋立ては、まさにスパイ小説の枠組みを超えたものだ。ディケンズやオースティンに例えられてもあながち的外れでないかもしれない。とにあれ「遺作」が楽しみである。

 

 以上引用終わり。なおここで紹介された遺作の『シルバービュー荘にて』は6月にハヤカワ文庫から発行されている。