村上春樹「独立器官」の元ネタを推測する

 昨日紹介した村上春樹『女のいない男たち』(文春文庫)に書き忘れたことがあったので補足する。中に収められた短篇「独立器官」は、有能な整形外科医が失恋して食べ物を拒絶して衰弱死するという話だが、これの元ネタではないかと考えたのが野見山暁治の紹介していたお母さんのエピソードだ。

 野見山暁治『いつも今日―私の履歴書』(日本経済新聞社)の「母の終焉」から、

 

 ちょっと福岡に戻ってきてほしいと母から電話があった。(中略)福岡は霙(みぞれ)まじりの雪がちらついていた。二月のことだ。母はぼくを見るなりタクシーを拾って、そう遠くもない銀行に連れてゆき、貸金庫にある現金と、通帳の全額をおろし、それから郵便局に立ち寄って、又しても通帳に打ってある全額をおろして、ぼくに渡した。今日のことは誰にも言わないように。

 ……わたしはね、死ぬことにした、そのときこの金を用立てるようにね……母はごくふつうのことのように言った。

(中略)

 半年前ほどのことらしい。廊下に何やらころりと転がっているのを母は見つけた。なんとそれが自分の粗相だと知ったとき、漠然と今日の日を予想したのではなかろうか、と妹たちは言う。たぶん母の美意識が許さなかったはずだ。

(中略)

 春になった。いったんは体調をこわして母は入院していたが、そこでの治療、食事の一切を拒み、家に戻ってベッドに臥せたきり動こうとしなかった。心を開こうともしなかった。ひたすら死に近づいてゆくだけの日々だ。

 母の口述による僕の記録。

 仏壇は一切不要、経机一つ、その上に花一輪、香合、なお死に顔は誰にも見せない事。

 食を断ってからほぼ二週間、医者からは再三入院を促され、相応の処置も強要されたが、ぼくは母の言うとおりに拒みつづけた。八十八歳、母はついに老人になることはなかった。

 

  野見山の『いつも今日』の発行が2005年、春樹の「独立器官」の発表が『文藝春秋』2014年3月号、参照したのは十分あり得るだろう。

 さて、野見山のお母さんは88歳で自らの寿命を閉じた。私の父も88歳で胃がんで亡くなった。父の葬儀の前に偶然富岡鉄斎の書を目にした。そこにはこう書かれていた。

 

「長生何必羨神仙」

長生何ぞ必ずしも神仙を羨やまん

長生きしたのだから別に不老不死の仙人などうらやましくもない

 

 鉄斎も88歳で亡くなっていた。