村上春樹『女のいない男たち』を読む

 先日映画『ドライブ・マイ・カー』を見たので、原作にあたる『女のいない男たち』(文春文庫)を4年ぶりに読み直した。ほとんど忘れていたが、「イエスタデイ」の栗谷えりかとの再会や、「シェエラザード」の空き巣のエピソード、また「木野」は全体によく憶えていた。「木野」のラスト宙ぶらりんで読者が放り出されていることの不満もかつて読んだ時の気持ちを思い出した。

 最近、中上健次の初期短篇集『一八歳、海へ』(集英社文庫)を読んだばかりだったので、春樹の巧さが際立って印象に残った。天性のストーリーテラーだという気がする。読んでいて楽しいし、いつもその先の展開が読めない。ベストセラー作家であるのがよく納得できる。

 ただ、最近読んだ吉本隆明『日本近代文学の名作』(新潮文庫)の吉川英治宮本武蔵』評を思い出す。

 

 ベストセラーの本には必ずどこか、いいところがあると思う。でも、縦には絶対に掘り下げない。縦への深さを作品に求めようとすると、孤立した作者個人になってしまう。横に世界を広げると大勢の読者の共通点に通じる。縦にとことん掘って行くことは純文学にとっては第一義の問題でありうる。だが、大多数の読者からは「そんなことを考えたり感じたりしているのはおまえ一人じゃないか」と言われてしまう。とうていベストセラーになりそうもない。それは一般に純文学の運命に対する自覚だと言ってよい。

 

 春樹を吉川英治と並べれば、世界の大多数の愛読者からブーイングを受けるかもしれないが、大江健三郎に見られる「縦への深さ」を春樹には感じることができない。しかし、それらは作家の資質の違いであって、そのこと一つで優劣を云々(でんでん)することはできないだろう。作家がみなドストエフスキーを目指したら、それもうっとうしいではないか。

 ついでに、谷川俊太郎北原白秋パウル・ツェランを求めるのも金魚掬いで尺超えのヤマメを期待するようなものだろう。

 春樹の「ドライブ・マイ・カー」という短篇から、同名の映画を作った濱口竜介という監督の才能に敬意を表したい。

 

4年前に書いた「村上春樹『女のいない男たち』を読んで」

https://mmpolo.hatenadiary.com/entry/20170730/1501423107