平林敏彦『戦中戦後 詩的時代の証言』を読む

 平林敏彦『戦中戦後 詩的時代の証言』(思潮社)を読む。題名に「1935―1955」と付されているように、1924年生まれの詩人が戦中から戦後にかけての詩人たちの軌跡を自分の文学活動と絡めて語ったもの。索引で数えると、登場人物は480人近くもいる。それらの人がほとんどずべて平林と何らかの関わりをもっている。同時代で詩を書いていた仲間を中心に詩人たちの歴史を実にていねいに綴っている。
 平林は田村隆一より1歳若いが、田村が属していた荒地グループを尊敬している。先輩や仲間たちの事跡を紹介し、彼らの詩をとりあげている。戦前から戦中にかけて、鮎川信夫、中桐雅夫、三好豊一郎北村太郎田村隆一、木原孝一、黒田三郎などの名前があげられ、若い詩人たちが拠っていたいくつもの詩誌とそれらの変遷が記録される。それがすべて平林との関係で語られている。本書は文献から起こされた文学史などではなく、詩人平林が体験した歴史、平林の個人史と深く絡み合った詩人たちの歴史なのだ。
 平林は召集されて茨城県の野戦重砲兵連隊に属していた。8月15日のことを書いている。

 不穏な気配のうちに訪れた8月15日、臨時の兵舎になっていた海辺の小学校の講堂は真夏の熱気で蒸れ、えたいのしれぬ重苦しさにつつまれていた。天皇玉音放送があるという通達で、数十人の兵士が集合した。生まれて初めて聴く昭和天皇の一種奇矯としかいいようのない肉声が、闇の底から這い上がり、甲高い語尾をひいてまた沈んでいく。詔勅はしばしば雑音で途切れたが、それは軍国主義に洗脳された大半の兵士たちが想像しえなかった無条件降伏の通告であった。
 録音の状態は最悪で容易に聴き取れなかったが、放送が終了すると同時に異様なざわめきが広がり、動揺させまいとする下士官の叫びと、十代の志願兵が食いしばった口からもらす嗚咽が聞こえてきた。その坩堝の底で、戦争という現実が理不尽に奪い去ろうとした詩の火種が、まだ燃え残っていることにぼくは気づいた。

 同じ体験をを安西冬衛は「勅語了り、再び君が代。涙滂沱として溢る」と書いたが、金子光晴はバンザイを叫んで、用意してあった「セントルイス・ブルース」のSP盤を蓄音機にかけ、飛びはねるように自己流のダンスをはじめたという。
 最終章で戦後の詩の状況を簡潔に総括している。

 だが腑に落ちないのは(本当はどうでもいいことかも知れないが)あたかも戦後の詩が「荒地」と「列島」に二分されるかのような誤った表現が詩書の類にも見られることだ。たとえば「列島」は「荒地」に対抗しつつ詩壇を二分する勢いを示したとか、「荒地」と「列島」が戦後を代表する詩誌であったとか……。そうだろうか? 鮎川信夫などは「「列島」は読んだことがない」という意味のことを一度ならず口にしていたし、飯島耕一も「「列島」の印象ははなはだ淡い。戦後は「荒地」と「列島」だったとすぐにいわれるが、誰もが両方に関心を持ったわけではない」(「50年代の証言」)と回顧している。また小田久郎の『戦後詩壇私史』(1995年、新潮社)にも「私は「荒地」と「列島」という二派対立の図式を好まず、たとえば「地球」を組みこむべきではないかと考えている」という箇所がある。すなわち、厳密にいって「列島」が「未来への力を生みだす新しい詩の可能性」(野間宏)を実作の上で示した形跡は認められず、戦後の詩は「荒地」を主軸として「地球」や「FOU」「純粋詩」「新詩派」「母音」「山河」「詩行動」「列島」などの複合的な活動によって、その全体性を回復する一時代を画したといえるのではないだろうか。

 けだし妥当な評価だと思う。「荒地」が主軸だったことは動かせないだろう。
 500人近くの名前が上がってはいるが、平林が体験した世界を中心に書いているので、戦中戦後の詩人たちに完全に目配りが利いたものとは言いがたい。小田久郎の『戦後詩壇私史』を読んでみたい。


戦中戦後 詩的時代の証言―1935‐1955

戦中戦後 詩的時代の証言―1935‐1955