『コミさんほのぼの路線バスの旅』を読む

 田中小実昌『コミさんほのぼの路線バスの旅』(日本交通公社)を読む。田中小実昌が住んでいた東京都世田谷区東玉川からバスに乗り、西へ西へと路線バスを乗り継いで、ほとんど20年かけて鹿児島まで行った記録。20年かかったのは、世田谷から小田原まで行き、小田原から三島まで行く。三島から名古屋まで、名古屋から京都までと、途中何年か休んで、またその続きを前回中断したところまで東京から鉄道で出かけていって、バスで乗り継ぐということをやっていたからだ。田中は西へ西へと行くのだが何の用事もない。ただバスに乗って西へ行くこと自体が目的なのだ。それも路線バスにこだわって、高速道路を走る高速バスには決して乗らないで。
 ただ乗ることを楽しむためだけに路線バスに乗るというのは、内田百間を思わせる。百間もただ列車に乗るためだけに旅行し、終点まで着くと何もしないで帰ってきてしまう。そのことを『阿呆列車』に書いている。列車と路線バスの違いはあるが、目的らしい目的無しに乗りに行くことが似ている。もう一つの違いは本の標題にもなっているように、田中が「ほのぼの」旅になっていることだ。田中の天然のような風貌や性格が百間の神経質さと異なる印象を与える。田中も何度か山下清に間違えられたと書いている。
 本書の紀行文を一部紹介する。田中は熊本を旅行している。

 田浦町役場、田浦川、甘夏みかん、田浦港、すこし沖合にちいさな島、白い波。また、山のなかにはいり、トンネル。トンネルの出口のむこうに海が見えてくる。海浦、佐敷トンネル、田中牛乳。この通りは国道3号線なのだろうか。
 湯浦温泉、兵六餅の看板。ぼくが子供のとき、父が仕事でこの地方に来ると、兵六餅をおみやげにもたされてきた。文旦餅によく似た、やわらかくて弾みのある舌ざわりをおもいだす。津奈木町、湯の児温泉。日奈久温泉にはじまって、不知火海の海ぎわには温泉が並んでいる。八代から水俣産交までは、熊南産交のバスで1450円。

 ざっとこんな感じののんびりした旅。しかし、ときにびっくりするようなことが書かれる。

 東神奈川駅前マーケットの、ぼくがいつも飲んでた飲屋には、おかみさんの親戚の子だという姉弟がいた。姉は中学3年生ぐらいの歳ごろだが、学校には行っておらず、弟は小学校の4、5年生だった。(中略)
 まだ口紅もつけたことのないこの姉が、口紅をつけてた夜があり、口紅が紅いのはあたりまえだが、いやに赤っぽく見えたが、奥の部屋に入って、しばらくしてでてきたそのコの口紅が、めちゃくちゃになって、口のまわりまで赤く汚れており、そのコは目に涙をいっぱいためていた。
 そして、奥の部屋から黒人の兵隊がでてきて、靴をはいた。若い、ひとがよさそうに見える黒人兵で、背中をまるめて、靴をはいてる姿が、今でも、いやにはっきり、目にうかぶ。

 一葉の『たけくらべ』の美登利だ。
 小田原に泊まったとき飲屋で若い娘と知り合う。一緒に飲み歩いた後で、

 ぼくがさそうと、女は、にいっ、とわらっただけで、旅館にはいったし、ぼくは金で男と寝る女かと思ったが、そうではなく、女は丈はあるが、ほそいからだを、いつまでも、ぼくにぴったりはりつけていた。
 やせてる女のほうが、じつは肉(み)がやわらかいが、この女の色白の肌は、正月の鏡餅を水につけて水餅にしたのを焼いたように、とろとろにやわらかく、ぼくのからだにはりつき、とろけこんできた。

 コミさんはこの後何日もこの女=明子と一緒に旅行する。あれっ、コミさん、野見山暁治の妹で怖い奥さんマドさんがいたんじゃなかったっけ?
 田中小実昌には一度だけ遭遇したことがあった。もう30年以上前になるが、虎ノ門の交差点を歩いていた。例の丸い帽子をかぶって。

コミさんほのぼの路線バスの旅 単行本

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