中沢新一「日本の大転換」を読む

 中沢新一「日本の大転換」(集英社新書)を読む。2度読む。新書でわずか156ページの薄さ、著者もあとがきで「このパンフレット」と言っている。しかし何という重い本だろう。本書のテーマは東日本大震災とその結果起こった福島第一原発の事故をめぐって日本の今後を考えることだ。
 中沢は原発そのものを問題としている。人類の経験したエネルギー革命の歴史を7つの段階に分類する文明学者ヴァラニャックの説を紹介する。第1次革命:火の獲得と利用、第2次:農業と牧畜が発達して新石器時代が始まる、第3次:冶金の「炉」が発達して金属が作られる、第4次:火薬の発明、第5次:石炭を利用して蒸気機関を動かす、第6次;電気と石油、第7次:原子力とコンピューター。この第7次の原子力の利用を、問題にする。

 原子炉内で起こる核分裂連鎖反応は、生態圏の外部である太陽圏に属する現象である。そして、この「炉」を燃やして発電をおこなう原子力発電は、生物の生きる生態圏の内部に、太陽圏に属する核反応の過程を「無媒介」のままに持ち込んで、エネルギーを取り出そうとする機構として、石炭や石油を使ったほかのエネルギー利用とは、本質的に異なっている。(中略)
……原子炉はこのような生態圏との間に形成されるべき媒介を、いっさいへることなしに、生態圏の外部に属する現象を、生態圏のなかに持ち込む技術である。地球が原始太陽圏の一部であった頃の余韻をたたえる高エネルギー現象が、石油や石炭の場合のような何段階もの媒介をへることなしに、無媒介に生態圏のうちに設置されている。

 そして中沢は、ユダヤ教キリスト教イスラム教という3つの一神教原発に似ているという。

 一神教はその生態圏に、ほんらいはそこに所属しないはずの「外部」を持ち込んだのである。モーゼの前にあらわれた神は、無媒介に、生態圏に出現する。(中略)
 一神教が思考の生態圏に「外部」を持ち込んだやり方は、原子核技術が物質的現実の生態圏にほんらいそこに所属しない太陽圏の現象を持ち込んだやり方と、きわめてよく似ている。思考の型として、まったく同型である。一神教出現以前の人類の宗教は、生態圏の閾(いき)域の内部でおこなわれてきたが、一神教の出現とともに、そこに生態圏に所属しない神が組み込まれることによって、人類の宗教には不安定が持ち込まれた。(中略)
 このような意味で、原子力技術は一神教的な技術であり、誤解を恐れずに言えばユダヤ思想的な技術である。(中略)生態圏に「外部」を持ち込もうとするその思考方法が、二つを接近させてしまうのだ。

 中沢は第8次エネルギー革命として太陽光発電を提案する。

 太陽光発電の仕組みは、第8次エネルギー革命を支える技術思想の基本構造をしめしている。ここに、風力発電バイオマス発電、海洋温度差発電、小水力発電など、さまざまな「自然エネルギー」の活用によるエネルギーの仕組みを組み合わせることができる。

 さらに中沢は原子力と資本主義の類似を言う。

 原子力と資本主義は、生態圏にたいする外部性の構造によって、おたがいが兄弟のように似ている。生命的な生態圏と精神的な生態圏にたいして、両者は類似の外部的なふるまいをおこなうことによって、これら2種類の生態圏に深刻なリスクをもたらすのである。

 中沢は経済に「贈与」が重要であることを言っている。

 経済のもっとも深い基礎には、贈与が据えられているのである。太陽エネルギーと同じように、贈与性がすべての経済活動を根底で支えている。この贈与性を忘却することによって、交換の経済がすべてを押しのけて、経済活動の全面にあらわれてきた。この状況は、太陽のおこなう不断の贈与を忘却して、化石燃料やウラン燃料を自分の資産として燃やし続けてきた資本主義の場合と、そっくりである。化石燃料にせよ原子力にせよ、資本主義に生命をあたえ続けてきたそうした燃料からは、贈与性の痕跡が消し去られている。贈与性の忘却の上に、商品経済は稼働しているのだ。

 パンフレットのように小さな本だが、重たい本だ。いま書いているという「黄色い資本論」を楽しみにしよう。
 末尾に書かれた1行は勘違いしている。中沢は他でも書いていたからそう思いこんでいるようなのだが、こんな一節だ。

 春に播いた1粒の麦の種が、秋には数千粒の麦の実を実らせるというやり方で、贈与がおこります。

 1粒の麦の種が秋に数千粒になることはない。おそらく100粒前後にしかすぎないだろう。農業は工業と違って効率が悪いのだ。

日本の大転換 (集英社新書)

日本の大転換 (集英社新書)