片山杜秀『見果てぬ日本』を読む

 片山杜秀『見果てぬ日本』(新潮社)を読む。副題が「司馬遼太郎小津安二郎小松左京の挑戦」というもの。小松に未来への総力戦、司馬に過去へのロマン、小津に現在との持久とのキャッチを付している。
 小松は未来を語る。1970年の大阪万博のテーマ「人類の進歩と調和」を立案したのは小松と梅棹忠夫だった。その後日本を石油ショックが襲う。小松は原子力燃料に期待する。それも核分裂型の原子力発電を過渡期ととらえ、将来は核融合型の原子力発電が主流を占めていると見ていた。実際にはいまだ核融合原子力発電は実現していない。
 司馬はモンゴルに憧れていた。大学も大阪外語大学でモンゴル語を学んだ。定住する農耕民族の中国ではなく漂泊するモンゴルの騎馬民族を理想とした。しかし敗戦によって司馬は狭い日本に閉じ込められる。戦後作家となった司馬は日本の歴史を舞台に小説を書く。司馬は武士が起こった東国をモンゴルの騎馬民族に見立てたと片山は書く。そして九州や四国などを海人族の末裔と見る。中国南部から渡ってきた民族の末裔だとも。両端から京都を見ると、それが中国をうかがうモンゴルや中国南部の海人族と同列に見えるのではないか。司馬は「私は前から、坂東武者の先祖は、そこに帰化して開拓をやらされた渡来人である、という説をとってきた」と書く。
 瀬戸内海の海人文化に育てられたのは、『菜の花の沖』の高田屋嘉兵衛、『空海の風景』の空海、『坂の上の雲』の秋田真之、『播磨灘物語』の黒田如水、『竜馬がゆく』の坂本龍馬等々だ。司馬の小説の主人公に取り上げられている。
 司馬は大阪言葉も土佐言葉もよくしゃべる言葉だとしながらも、大阪言葉の曖昧さを嫌う。大阪弁からは真の思想も哲学も生まれないと言い切る。ところが土佐の言葉は非上方的で論理性が強い。この大阪弁への司馬の批判は以前ここにも紹介したことがある。
上方商法は芸だね(2007年3月12日)

 片山は司馬の主人公たちを次のように総括する。

 辿り着きたくはない。その前で倒れる。個人があくまで個人としてブリリアントに生き、何かが出来上がってしまいそうになったら、前段階で断ち切る。それが司馬の美学に合っている。
 そう思って司馬の小説群を眺めれば、長く強く生き抜いて功成り名を遂げた人を熱心に描こうとはしていないと分かる。ひたすら時代を駆け抜ける。目的を成就させぬうちにフッと消えてしまう。あるいは負けてしまう。非業の死を遂げる。夭折する。山岡荘八のように、徳川家康が忍耐を重ねて天下を獲得し幕府機構を作り上げる様を執拗に描くなんてことしない。
 たとえば『国盗り物語』の織田信長は、天下統一の夢を果たせず本能寺で斃れる、『関ケ原』の石田三成は事成らず、関ケ原の役に敗れて捕まる。『城塞』の真田幸村後藤又兵衛は大阪の役で敗死する。『世に棲む日々』の高杉晋作は維新を見ずに病で逝く。『竜馬がゆく』の坂本龍馬もまた維新を見ずに殺される。『花神』の大村益次郎は、維新は見たものの直後に京都で暗殺される。『峠』の河合継之助は長岡戦争で敗死する。『燃えよ剣』の土方才蔵は函館戦争で戦死する。

 司馬は過去へのロマンだという。
 映画監督の小津安二郎黒澤明と比べられる。二人ともアメリカ映画に強く影響されたが、作風は大きく異なっている。黒澤はジョン・フォードを理想とし、小津はエルンスト・ルビッチを好んだ。片山は小津を節約の思想ととらえる。

 小津はカメラを低い位置に固定する。クレーンとかにカメラを乗せて高低を積極的に作らない。そうやって手間を省く。目先の変化を少なくする。目にうるさくならない。同じ高さでずっと観ていられる。凝視できる。最大効率でドラマに集中できる。(中略)
 手間を少なく、力を使わず、高低を作ってその格差のエネルギーに頼って奇を衒わず、角を立てずに。小津の円の思想だろう。

 最後に「あとがきに代えて」で片山は書く。

……本書で試みようとしたのは、ティリッヒ流の過去志向と現在志向と未来志向という3つの志向、そしてそれぞれの志向を支える根源と自律と決断という概念を近現代の日本に応用してみるということでした。(中略)
……たとえば、過去に遡るのが大好きな歴史小説家と、ひたすら日常現在を描くのが大好きな映画監督と、未来へ大風呂敷を広げるのが大好きなSF作家という、いずれも私が長年愛してやまない3人を揃いにすることで、近現代の思想史の大きな断面が見えるということはないか。

 片山の意図した過去現在未来を3人に託して思想史を語るという試みは成功していないと思う。ただそのこととは別に、司馬遼太郎論、小松左京論、小津安二郎論として大変面白く読むことができた。充実した読書だった。
 片山の著書は音楽論、思想史ともにいつも興味深く読んで来た。そういう意味で外れがない。
 ただ本書に限って、まるで戦後アメリカのハードボイルドやヘミングウェイのような短い文節を畳みかけるような文体で、そのことに驚いた。おそらく意図して書いているのだろう。


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