川口晴美『Tiger is here.』(思潮社)を読む。昨年7月に発行された川口の新しい詩集。巻末の著作一覧を見れば、1985年発行の『水姫』(書肆山)から数えて、本書が12冊めの詩集だ。「現代詩文庫」からも2012年に『川口晴美詩集』が発行されている。すると私が知らないだけで、川口はもうベテランの詩人なのだ。そのほかに著書も何冊か書いている。女の人は生年を隠すから彼女が何歳なのか分からない。おそらく50代くらいなのだろう。
最初の詩「幻のボート」からの第1連を、
川沿いにあったのは素敵なホテルでもレストランでもなく古い喫茶店で
パフェもうどんも出すような店内の窓際の席で放課後を過ごした
教科書をつめた鞄は自転車の前カゴに置きっぱなし
制服のままひとりで
流れる水をガラス越しに眺めていると
向こう岸の土手を校庭から下りてきたボート部の子たちが
橋の下を漕ぎ抜けて海のほうへ出て行くのが見える
沈みかける日の光に照らされて眩しい水が
揺れながら薔薇色を川まで滲ませていく
ひたひたと夜が近づく
私は体操部を一ケ月でやめたから
どこにもいかなくていい
どこにも行くところはない
苦いコーヒーがおいしいとおもえるようになるのはまだ先のことで
滑るように遠ざかっていくあの細長いボートがなんという名前か知らなくて
漕いでいるのは数学のクラスで隣に座っていた女の子かもしれないけれど
見えなかった
原子力発電所もここからは見えない
やわらかく抱きとめる腕のようなふたつの半島にちいさな海ごと閉じ込められ
町は 凹 のかたち
どこにも行けなかった
朝と同じ道を逆にたどって家へ帰るだけ
自転車で橋を渡ると黒い鞄がたいくつな音をたてて
アイロンかけをさぼってばかりの制服のスカートがだらしない花のように広がって
夕暮れの水面につかの間咲く
第2連が心理テストで、ボートで漂流しているとき、孔雀、猿、羊、馬、虎も乗っているが、漂流が長引くにつれ1匹ずつ捨てていかなくてはならない、どの順番で捨てていくか、というテストが紹介される。
第3連で「順番はどうでもいい/理由なんかない/わたしは虎を最後まで捨てない/それだけがたしかなこと」と書く。その第3連の後半、
最初に捨てたのは黒い鞄だった
制服もすぐに捨てた
しばらくしてから教科書もぜんぶ
ぶつりげんだいこくごすうがくちりせかいしにほんしえいごせいぶつかがく
紙と紙に記された文字にすぎないものはなくなって
習い覚えたことも大半は忘れていくけれど
忘れないこともあって
それはたぶんわたしのいちぶになっているから切り離せないそれでも
捨てたということになるのだろうか
わたしは
あの町を捨てたのだろうか
凹 のかたちの町にわたしはもう住むことはない
忘れない
原子力発電所はここからはもう見えない
ボート部だった女の子がいまもあの町に住んでいるのをわたしは知っている
おなじ寅の年に同じ病院で生まれて数学のクラスでは隣の席だった
わたしとあの子を隔てたものは何なのか
たまに夢をみる
わたしたちはそれぞれのボートを漕いでどこかへ流される
(あしたは虎と漂流した男の子の映画を観に行く)
リズミカルで小気味いい文体だ。凹のかたちの町とは福井県小浜市のようだ。あとがきに「私は福井県小浜市出身で」と書かれている。地図で見ると小浜市は凹のかたちに海を囲んでいて、むしろ巾着に似ている。
「輝く廃墟へ」から、
でも
だから
呼んでみようか虎を
おいで、ここへ
わたしのなかへおいで
ほら、
見てごらんいちばん高い窓の縁に
わたしの虎がたったひとりで立っている
光のような黄色と闇のような黒を身にまとい
強くやわらかく背を撓らせて
天井近くを走る配管に軽々と飛び移り
おおきく口をあけて
Tiger is here! と
誰にも聴こえない咆哮を轟かせながら
幾重もの鉄骨を走り抜け
影の迷路を壊して落下する
光り輝く濡れた牙がからっぽの空間を切り裂いてゆく
川口のこの虎の連作詩は、長谷川龍生の長編詩「虎」を思い出させる。その「虎」は長谷川が蛤中毒で3日間記憶を失っていた間に書かれたものだった。山手線の切符でエールフランス機に乗ろうとして空港保安官に保護されたが、記憶を失っていたあいだに長編詩「虎」を書いていた。川口の虎連作詩が長谷川の「虎」に通底しているのは間違いないだろう。
長谷川龍生の「虎」18連1333行の冒頭2連、
1
泪もろい
ああ 泪もろい
はらはらと泪がこぼれる。
路をあるいている時
電車にのっている時
ひとり ベンチにねそべっている時。
おれは、恐怖王
ああ どうして、
単純、残忍、無償殺人者、
夜の路をすれちがっていった人
電車の連結器にのっかっている人
なんでもなく平凡に生きている人
おれは殺す
2
虎、はしる
虎、はしる
生きものが、すべて弱く
ひしめいて死んでいく冬の野づら
電線のとぎれている砂漠のはてから
鉄道のとぎれている荒地のはてまで
吹きながしている風の帯のかなた、
いちばん遠い獲ものをめがけ
蹴立てる爪 蹴立てていく現実
城をこえ、湖をふかくくぐり
禿げ山をかけ上り下り
虎、はしる
虎、はしる
またブレイクの「虎」、その冒頭
虎よ! 夜の森かげで
赫々(あかあか)と燃えている虎よ!
死を知らざる者のいかなる手が、眼が、
お前の畏るべき均整を造りえたのであるか?
さらにサッスーンの詩「In Me, Past, Present/Future meet」から
内なる虎が薔薇を嗅ぐ
In me the tiger sniffs the rose.
これらが川口の詩の淵源になっているのは間違いないだろう。
川口の他の詩集も読んでみたい。
- 作者: 川口晴美
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