ランボーの「別れ」

 この頃なぜかしきりにランボーの「地獄の季節」の1章「別れ」が思い出される。まず小林秀雄の訳で。

友の手が何だと俺は語ったか。有難いことには、俺は昔の偽りの愛情を嗤(わら)うことが出来るのだ。この番(つがい)になった嘘吐きどもに、思いきり恥を掻かせてやることも出来るのだ、ーー俺は下の方に女どもの地獄を見た。−−さて、俺には、魂の裡にも肉体の裡にも、真実を所有する事が許されよう。

 同じところを粟津則雄の訳「別れ」で。

おれは友の手について何を話していたか! すてきな取柄がひとつある。おれは昔のいつわりの愛情を嘲笑し、あの嘘つきの番(つが)いどもをはずかしめてやれるんだ、ーーおれは下方に女たちの地獄を見た。ーーやがておれは、真理をひとつの魂とひとつの肉体のなかに所有することができるだろう。

 村上菊一郎は「訣別」と訳した。

おれは友の手のことを何と話していたのか! 好都合なことに、おれは、昔のいつわりの愛情を嘲笑し、あの嘘つきのカップルどもに赤恥をかかせてやることができるのだ。ーーおれは向うのほうに女たちの地獄を見た。ーーいずれおれには、一つの魂と一つの肉体のなかに真理を所有することが許されるだろう。

 寺田透は「告別」と訳している。

相携える手のことで、わたしは何を言ったのか。偽りの古い愛を笑ってやって、あの嘘つきのふたり連れたちに汚辱を浴せてやれるということは、大したとりえである。ーーかの地で、私は女の地獄を見たではないか。ーーしかもわたしには、今後、一個の魂と一個の肉体のうちに真理を所有することが許されるのだ。