進化すると見えなくなる

 昔カラヤンが来日してサントリーホールで公演をしたとき、NHKFMで生中継された。ムソルグスキーの「展覧会の絵」が始まってすぐトランペットが音を外してしばらく変な音程が鳴り響いた。しかしカラヤンは演奏をやめることなく最後まで指揮をした。この時の演奏がその後2回放送された。2回目のトランペットは狂ったままだったが、3回目の放送ではどうやったのか修正されていた。
 それに対して、吉松隆交響曲第2番「地球(テラ)にて」を指揮した外山雄三は曲が始まってすぐ東京フィルハーモニーティンパニ奏者のリズムが気に入らなかったらしく、指揮棒で譜面台を強く叩いて演奏を中止させ、初めからやり直させた。外山がなぜやり直させたかを想像するに、この演奏が録音されて発売されることが予告されていたことと、この曲においてティンパニの刻むリズムが終始鳴り続けてとても重要だったことだ。ティンパニが同一リズムを刻み続ける、これはミニマル音楽の影響だろう。
 以前コンピュータグラフィックス(CG)についての講演を聞いたとき、武蔵野美術大学の先生は、CGが登場した時いかにもCGだという表現がされていたが、次の段階ではそれが洗練され、第3の段階でもうどこに使われているか分からないくらい溶け込んだと言われた。たいていのテレビCMにはCGが使われているのにもう誰も意識しないと。
 シュールレアリスムもそうだった。最近の若い画家は、石田徹也などのように、ことさら言挙げすることなく、それを自分の絵に取り込んでいる。
 新しい手法は既存の方法の中に入り込み、既存の方法を再生する。