柴田克彦『山本直純と小澤征爾』を読む

 柴田克彦『山本直純小澤征爾』(朝日新書)を読む。帯の惹句に「埋もれた天才と世界の巨匠」とある。さらに「日本のクラシック音楽の基礎を築いた二人の波乱万丈な人生」と。小澤征爾の言葉として、「僕はいつも彼の陰にいました。でも対抗心なんてまったくなかった。彼(直純)の方が圧倒的に上だったんです」というのが紹介され、山本直純の言葉として「音楽のピラミッドがあるとしたら、オレ(直純)はその底辺を広げる仕事をするからお前はヨーロッパへ行って頂点を目指せ。征爾が帰ってきたら、お前のためのオーケストラをちゃんと日本に用意しておくから」と言ったとある。
 終戦後齋藤秀雄は吉田秀和らとともに、桐朋女子高等学校に共学の音楽科を開設し、小澤はその第1期生となった。しかし齋藤は多忙で、小澤より3歳年長の直純に指揮の指導を任せた。直純は東京藝術大学へ進み、小澤は桐朋学園短期大学へ進んだ。
 直純が藝大3年のときに日本テレビが民放として初めて開局した。直純は準備段階の実験放送からスタッフに加わり、ドラマ音楽や体操番組の伴奏ピアノを受け持った。体操の伴奏は週1回。これだけで大卒の初任給の3分の1を稼いでいた。
 小澤はさまざまな人の援助を受けてフランスへ留学する。そしてブザンソンの国際指揮者コンクールで優勝する。その後日本国内や海外での経験を積み、バーンスタイン、またカラヤンの指導を受け、指揮者としての評価を高めていく。ボストン交響楽団音楽監督に就任する。
 直純はテレビ、映画の仕事を増やしていく。「オーケストラがやってきた」などの番組や、映画音楽の作曲、ライトクラシックの音楽の指揮などで活躍する。あるとき、NHK交響楽団定期演奏会の指揮をすることになった。しかしその後交通違反を起こし、N響の定期の指揮も取り消され、しばらく謹慎することになる。
 著者柴田が残念がる。あのとき交通違反をしなければ、直純は別のキャリアを築いたのではなかったかと。小澤の成功は誰でも知っている。しかし直純は過小評価されているのではないか。直純は小澤からもきわめて高く評価されていたのだ。ベートーヴェン交響曲全9曲を全部暗譜していたのだ。柴田のその悔しさが本書を執筆させたのではないかと思わせる。誰に対する悪口も非難もないとても気持ちの良い読書だ。
 それはそうなのだったが、直純が純クラシックの世界で高い評価を得られなかったのは本当に運が悪かっただけなのか、という疑問が残るのは仕方がない。いや、だれもが小澤のようなクラシックの指揮者の頂点を極めるべきだとは思わない。直純が日本のクラシックの聴衆の底辺を広げたのは事実だ。だが、柴田は別の道があったのではないかと残念がっているようにも見える。もしそうだとすれば、直純がライトクラシックの道で終わったのはなぜなのだろうか。たまたま運が悪かっただけなのだろうか。そのあたりのことを知りたい気がする。


山本直純と小澤征爾 (朝日新書)

山本直純と小澤征爾 (朝日新書)