茂木健一郎

茂木健一郎「脳と仮想」(新潮社)を読む。
クオリア(質感)と仮想という言葉以外、やさしい日常語で新しい認識論を語っている。フッサールメルロ=ポンティを楽々と乗り越えて。
天文学が哲学の宇宙論に取って代わったように、認知科学が認識論に代わりつつある。


シャノンやチューリングフォン・ノイマンらによってつくられた情報工学は、その創始者たちの意向とは無関係に、生成を切り捨てた科学主義の変形として私たちの精神に作用した。そこでは、諸物は、ある形で存在するものとして、そしてその形で存在する限りにおいて、方法の対象になった。出自は問われない。生き、死に、腐敗し、同化し、やがて循環して行く生命の潮流は視野に入らない。すべては、閉ざされ、管理された空間の中で、ぐるぐると回り続ける。そのような静止した情報からなるシステムに、生命の息吹を与え、世界の生成の喜びを伝えるのは、太古から変わらないものとしてある私たちの身体、脳だけである。(本書より)


「そもそも、人間にとって、自分の意識がある、ということほど確実なことはないはずである。物質的世界こそ確実だ、という近代科学の世界観は、おそらく公共的倒錯とでもいうべき奇妙なねじ曲がりの上に成り立っている。」(本書より)