佐藤文隆の『「科学にすがるな!」』を読んで

 8年ほど前に書いた《佐藤文隆の『「科学にすがるな!」』を読んで》をたまたま読み直したら、我ながらとても興味深い内容だと思ったので、ここに再録する。

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 艸場よしみが佐藤文隆にインタビューした『「科学にすがるな!」』(岩波書店)を読む。副題が「宇宙と死をめぐる特別授業」。艸は「くさ」と読む。佐藤文隆京都大学名誉教授の理論物理学者、宇宙論や一般相対論に関する著書も多い。題名は佐藤の言葉「科学にすがるな!」から採っているのでカギかっこでくくられている。

 フリー編集者の艸場が宇宙研究の第一人者と目した佐藤に、「死ぬ意味、生まれてきた意味」を教えてほしいと企画したもの。1年間に7回の対談を行って、それを艸場がまとめている。

 艸場は一流の科学者から死について教わりたいと考えている。科学が進歩してさまざまなことが分かってきている。その先端の科学者は死について何と言ってくれるか。哲学や宗教の視点ではなく、科学者の視点では何と語ってくれるかと。

 艸場は佐藤に対して、勉強してきた物理学の話題を取り上げる。

 

 「ようやく少しわかりました。物理学と哲学はとても近いものなのですね。物理で探求しようとしていることは、物質の根源なのですね。古代の哲学者が万物の根源を探し求めたのと、同じなのですね」

 すると先生から表情がすっと消えた。/「根源なんて」/がっかりしたように首を振る先生。/「ないんだよ、そんなもの」(中略)

 「根源なんていう言葉に意味はない。究極の物質を突き止めるなんて、軽々しくいう言葉ではないし、意味はないのだよ」(中略)

 「最近の理論では、物質の根源は「粒」ではなく、「振動するひも」なんですってね」

 「いまのぼくには興味がないね。世の中でもっとリアルな、自然についての知識が増すようなことなら、いまだって興味があるけれど」/と、ふいと横を向く。

 「最近話題になっている暗黒物質については、どうなんでしょう? じつは宇宙の大部分は暗黒物質、つまりまだ解明されていない不思議な物質で満ちているそうですね」/何とか食い下がろうと、返事を待った。

 「それも、なんの意味もないという話がはじまるだけだ。やめよう、その話は」/と、さえぎるように手を振った。

 

 艸場の提出する話題に対してにべもない。ダークエネルギーもビッグバンも話はすれ違うばかりだ。しかし艸場は問いかける。佐藤は、宇宙は人間が存在するために生まれたという「人間原理」に対して明確に否定する。艸場は死について聞くつもりでいたのに、佐藤からは物理学についての基本的な講義が続けられる。話題は、真空、素粒子シュレディンガーの猫、そして量子力学のこと。

 

 「量子力学は、いままでわれわれが見てきた世界の見方が間違っているのですよと、けちをつけてくるんだ。量子力学の不思議さは、理論の欠陥ではなく人間の欠陥だろうと、ぼくは考えている。人間は、自然を素直に見るようにはできていないんです」

 人間はマクロの世界で生きてきたから、微細なミクロの世界を理解できるようにはできていない。田舎で育った人間がハイカラな量子力学を理解できないでいるんだ。人間はしょせん田舎者なんだ、と先生は笑った。

 

 最後の章になってようやく艸場の知りたい「死」に近づいてくる。

 

 「先生が学者としてやってきたこと、つまり宇宙や相対論をはじめとする物理の探究を通じて、死や生をどうとらえているかを聞きたかったのです」(中略)「でも、宇宙や時間の話をいくら聞いても、死や生につながらないのです」

 先生はちょっと首をかしげた。/「物理では人間はわからない。まして死や生などわかるはずがない。ぼくは折に触れいってきたはずだが」

 

 「物理学とは何ですか」/いまさらながら尋ねた。(中略)

 知ったことからその先を予測して、また実験して検証する。こんな地道な積み重ねで知識の範囲を広げていくのが科学である、と先生はいった。(中略)

 私はこのとき二つのことを理解した。/人間はそのとき立っている場所から探索してきたし、科学がどんなに進んでも、わかったことから広げていく態度が大事だと先生は考えているのだ。/そして、物理法則は人間が作ったものだというその意味は、物理法則とは人間がそのように自然を見た見方なのだ。

 「物理や科学の理論は、人間の思考様式に合うようにつくっているんだと思うよ。だって、人間のものの考え方というのは、しょせんは人間が納得するかどうかだからね。なのに、人間を離れた所に何かあってそれを学ぶのだと考えるのは、間違っている。宗教みたいに人間を離れよう離れようとしても、離れた所には何もないと思うけどね、ぼくは」

 

 本書の第1章で佐藤は「実在には3つあると考えている」という。目の前にあるカップは第1の実在で外界(がいかい)だ。人間がいなくても外界はある。これをカップだとぼくたちが認識するのは、電気信号の作用。いっぽう夢も、頭のどこかで信号が起きたことによる。つまりカップだと思うことと夢で思ったことは、同一レベルの話で、これは第2の実在。外界に対して内界、つまり人間の内部だ。この第2の実在は外との関係で存在する。

 そして、「第3の実在とは、ぼくたち人間が社会的に受け継いできたものをいう」。人間は社会的な動物だ。言語だとか慣習とかはぜんぶ第3の実在である、文学も科学も宗教も、と先生はいった。

 最終章末尾に至って、先生が生と死について語る。

 

 「あなたがぼくに最初に問いかけた、死についてだけれど」(……)「私だって、何もなくなることに何も感じないわけではない」(……)「しかし、第3の世界に何かを残して、そこで記憶という形で生きながらえたいという思いがある。ぼくは学者として生きてきたから、科学の知を残したいと思うが、人によってそれなりに残すものがあるはずです」/家族とか友人といった身近な対象に、何かを残す人もいる、そこは多彩であると先生はつけ加えた。

(中略)

「ぼくは、こうした人間を磨くという(ポール・ヴァレリーの)考え方が非常に好きです。スポーツもそうです。科学で専門性を鍛えることもその一つでしょう。/ぼくはずっと、文化や芸術や科学といった、人間が積み重ねてきた第3の世界の素晴らしさをいっているが、そこに目が行くことが大事なことだと思うね。そこで人類とともに生きていくことです」

 はじめて会ったとき、先生は永遠に生きるすべについて話してくれた。/「第3の世界に名を残したいという努力です。人間を磨いて、完全に自分がなくなったあとも、第3の世界の中で生き続けたいと思うことです。こういう気持ちを持つことは、非常にポジティブでいいことやと思うね。死ねば物体として戻ってくることはないでしょう。でも、第3の世界は残る。死んだあとも第3の世界に伴走することが、幸せでもあり救いでもあると思うね。そのために人間を磨くのです」

 

 私もそろそろ死について考える年になってきた。死ねば意識は消え、魂などというものはなく、肉体は消滅する。何も残らない。ただ親しい者の記憶の中にしか、と考えていた。それでいいと思っている。仮に死ぬときに苦しむことがあっても、それはいっときのことだ。長い人生から考えれば微々たる時間にすぎない。悪くない人生だったと思っている。だからこの先辛いことがあったとしても、圧倒的に長い時間は満足すべきものだった。後悔することや悔やむことはない。第3の世界に何を残せたわけでもないが、大きな不満はない。

 生物にとって、生は偶然与えられたものに過ぎないだろう。人間だからといって、生物一般と異なるとは思わない。宇宙は地球の生命に何の関心も持たないだろう。人間の価値は何ら宇宙的な根拠はなく、ただ人間を根拠とするばかりだと思う。この考え方と、第3の世界を重視する考え方と矛盾はないだろう。

 本書を読みながら、「生と死」がテーマのはずなのに、物理学のことばかり語られていて大丈夫なのかと思っていたが、最後はちゃんと重要な結論にたどり着いていた。ブーメランの飛跡みたいだった。