千葉聡『歌うカタツムリ』を読む

 千葉聡『歌うカタツムリ』(岩波科学ライブラリー)を読む。カタツムリという地味な生物を研究対象としている進化論の本だ。標題の所以は200年前ハワイの古い住民たちがカタツムリが歌うと信じていたことによる。19世紀の半ばハワイでのカタツムリの研究を通じて進化論に偉大な業績を残したジョン・トマス・ギュリックもこのカタツムリの歌声について書き残しているという。ところがこの謎は解けぬままに終わった。ハワイのカタツムリは20世紀に入るとほとんど絶滅してしまったからだ。
 本書について8月6日付けで毎日新聞海部宣男)と読売新聞(塚谷裕一)に書評が掲載された。読売新聞の塚谷の書評を引く。

……タイトルの選び方も構成も語り口も、ちょっと日本離れした、スケールの大きな自然史の物語だ。英米の良質の自然科学本を読んだ満足感がある。これほどの書き手をこれまで放っておいたとは、自然系編集者はこぞって反省すべきだろう。

 この意見に全く賛成する。
 毎日新聞の海部の評は本書を的確に要約している。「文章は闊達だが、周到に構成された進化論研究史になっている」。さらに引用する。

 本書によれば、ダーウィン以来、進化を生み出す原動力として、一つは言うまでもなく、ダーウィンが最も重視した「適応による自然選択」。環境に適したものが生き残って新たな種へと発展していく「自然選択」は、ダーウィン進化論の基本であり続けている。けれど実際には、それだけでは説明がつかないことが多々ある。そこで重要な役割を果たすのが、偶然が支配する「遺伝的浮動」である。この偶然的な進化というプロセスをカタツムリで提示したのが、19世紀末に20年以上も日本で布教活動をした宣教師、ジョン・トマス・ギュリックだった。ダーウィンより20歳ほど若いが、同時代人である。(中略)
……ギュリックはカタツムリが谷ごとに地域隔離され、それぞれの谷でランダムな進化を遂げたと考えた。彼の論文は、『種の起源』を出版したダーウィンに大きな衝撃を与えたという。(中略)
 「隔離された生物集団は、ランダムで小さな変化の蓄積で新たな種を形成してゆく」というギュリックの考えは、「適応による自然選択」を補強する、進化論上の重要なキーとなる。これが、その後の集団遺伝学や木村資生の「分子進化中立説」などを踏まえながら、「遺伝的浮動」として定式化されていった。だがそれは、一筋縄ではいかなかった。進化は、複雑で精妙なのだ。

 進化論という堅苦しいテーマを扱っていながらきわめて面白いのだ。それは著者の文章力がひときわ優れていることによるものだろう。昆虫生態学を扱っていながらミステリのような面白い本を書いた岸本良一の『ウンカ海を渡る』(中央公論社)を思い出した。
 種の定義について、本書にこうある。

 1940年代初め、(エルンスト・)マイアはニューギニアで行った鳥類の調査の経験から、種とは何かという問題に一つの解決策を見出していた。それが現在の私たちにとって最も一般的な種の定義、生物学的種概念だ。これは種を「自然条件の下で実際にあるいは潜在的に互いに交配している個体のグループで、他のグループから生殖的に隔離されているもの」と定義する。そして種を、実体のある生物学的な単位とみなした。

 第2次世界大戦以前のイギリス優生学協会の理念がちょっとだけ紹介されている。

 ちなみに総合説の幕開けを飾る(ロナルド・)フィッシャーのこの名著(『自然選択の遺伝学的理論』)は、その後半が優生学からみた人間社会学の分析にあてられていた。実はこの著書は、「遺伝子に欠陥のある人間を探し出して排除すべし」「悪い遺伝子が増えないように、上流階級とそれ以外の階級のあらゆる交流を禁止する身分制度をつくれ」と政府に圧力をかけていたイギリス優生学協会会長に、フィッシャーから感謝と親愛の意を込めて捧げられたものであった。

 ヒトラーが出現する土壌として、ヨーロッパではこんな風に優生学が普及していたのだろう。
 そのことはともかくとして、すばらしい本だった。あとがきで著者が書いている。

 生物学者は往々にして、ひとつのグループの生き物を一途に、マニアックに研究することがあります。それはなぜか。その生き物に特別な魅力や不思議を感じるから? もちろんそれも理由のひとつです。しかし実は、その生き物の研究を通して自然の普遍的な原理を見出したい、という壮大な意欲や使命感に駆られている場合が多いのです。ローカルを極めると、グローバルな世界が見える。ガラパゴスな世界を極めると、地球全体が見える、と信じる研究者にとって扱う生き物は、自然と生命現象の「モデル」なのです。しかしこれは、なかなか理解が難しい。
 そこで本書では、カタツムリの進化の研究、という限りなくマニアックでローカルな世界から、どれだけグローバルな物の見方が導かれるか、というもくろみに挑戦しました。だから本書では、「カタツムリ」が進化という大きな謎に迫るための「モデル」であるとともに、「カタツムリの進化の研究」自体が、ローカルとグローバル、局所と普遍の関係を理解するための、ひとつの「モデル」です。

 進化論史の本だからけっこう難しいところも多いが、それを面白く手際よくまとめている。重ねて絶賛したい。


歌うカタツムリ――進化とらせんの物語 (岩波科学ライブラリー)

歌うカタツムリ――進化とらせんの物語 (岩波科学ライブラリー)