池田清彦『進化論の最前線』を読む

 池田清彦『進化論の最前線』(インターナショナル新書)を読む。聞きなれない新書だが、今年1月に創刊した集英社インターナショナルの新しい新書名だ。池田清彦構造主義進化論を提唱している生物学者。本書は出版された月に購入したが、池田は地球が温暖化の傾向にあるという主張に反対したり、独特の分類学を唱えていたり、しばしば過激な発言が飛び出したりしてなんとなく敬遠していた。その主張には耳を傾けるべきものがあるのだが。
 そんなわけで購入して10カ月経ってようやく読んでみた。それが意外にもやさしく分かりやすく書かれている。現在の進化論は、突然変異と自然淘汰で説明できるとするネオダーウィニズムだが、それですべてを説明できるとする主張を池田は批判する。生物の進化は遺伝子だけでは説明できない。細胞といった遺伝子を取り巻く環境(構造)のもとで、遺伝子の発現パターンが変化する。そのような構造の違いによる変化が生物の進化に影響を与えているのではないかと言い、それを構造主義進化論と呼んでいる。
 池田にしては穏やかな物言いだと感じたが、おそらくそれは発刊間もないインターナショナル新書の編集者からの要請なのではないかと思い至った。つまりこの新書は入門書的な姿勢がいわゆるコンセプトなのだろう。進化論について初心者にわかりやすいように書くというのが編集者の注文だったのではないか。何しろ集英社インターナショナルの新しいシリーズ、インターナショナル新書の第2号なのだ。
 さすが分類学者として特異な主張を持っている池田の一端が現れている個所を引いてみる。

 言葉はあらゆるものを分節していきます。つまり、人間は言葉があることによって様々な物事を分類して概念を構築し、世界を認識しているのです。
 例えば、「ヒト」という概念には、地球上にいる73億人のすべてが含まれます。でも、個人は一人ひとり違うのに、なぜ全員を「ヒト」という言葉でくくることができるのか、それは人間が「ヒト」という同一性を捏造したからです。
 個人一人ひとりを見比べれば、その違いは明らかです。しかし、なぜか人間には異なる事物を同じと見なす能力があるのです。その同一性に客観的な根拠はありません。人間は恣意的な区分で「ヒト」という同一性を捏造して、すべての個人を「ヒト」と分類したわけです。それは「ネコ」や「イヌ」「コップ」なども同じです。このようにして、我々は同一性を捏造することで言語を発達させてきました。

 人間は恣意的な区分で同一性を捏造していると、池田は主張する。この考え方は渡辺慧と同一で、分類は恣意的なもので客観的な根拠はないという立場だ。そのことは非常に興味深い考え方だが、私にはその正否を判定することができない。いずれこの辺りのことも読んでみたい。