松濤の廃墟


 渋谷の東急百貨店本店の横の道をまっすぐ首都高に向かって登っていく坂道。松濤1丁目あたりの道に面して廃墟があった。これを撮影したのはもう15年以上前だったが、現在は瀟洒なビルが建っている。
 屋敷だったところの右側に立派な門らしい石柱が立っている。それにしても普通の屋敷がここまで樹木に覆われるまで何十年も経っているのではないか。松濤のこんな地価の高そうなところを廃墟にして地主は何を考えているのだろう。当然不動産屋は放っておかないはずだ。つまり相続に問題があって売ることができなかったのだろう。

 門の石柱に少し壊れた表札が残っていた。それは「神道寛×」と読める。×に当たる文字は「次」のようだ。神道寛次で検索してみる。「20世紀日本人名事典の解説」によると、
 神道寛次(じんどう かんじ)は、

大正・昭和期の弁護士,社会運動家
生年 明治29(1896)年11月20日
没年 昭和46(1971)年2月17日
出生地 愛知県
学歴〔年〕小卒
経歴 布施辰次法律事務所で手伝いながら大正11年独学で弁護士試験に合格。12年の亀戸事件で布施弁護士らと救援活動。13年兵役を終えて弁護士となり自由法曹団に参加、福田雅太郎大将狙撃事件、京都学連事件などの弁護活動を行う。3.15事件、4.16事件の弁護に当たった日本労農弁護士団の他の弁護士と共に、13年治安維持法違反で検挙された。戦後20年自由法曹団再建に加わり、三鷹事件松川事件の弁護に当たった。この間、3年の第1回普選に労働農民党から立候補、4年新労農党の結成に参加。戦後は日本共産党から数回衆院選に立候補した。

 とある。さらに「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」では、

1896−1971 大正-昭和時代の弁護士。
明治29年11月20日生まれ。布施辰治法律事務所に出入りし,独学で弁護士試験に合格。大正12年の亀戸(かめいど)事件では布施らの糾弾運動を支援。13年弁護士となって自由法曹団にはいり,福田雅太郎大将狙撃(そげき)事件,京都学連事件などを担当。戦後,自由法曹団の再建に参加。三鷹事件,松川事件にたずさわった。昭和46年2月17日死去。74歳。愛知県出身。陸軍工科学校卒。

 1971年に亡くなって、その後この家に誰も住まなくなって、ほぼ30年後に私が屋敷跡を撮影したと考えればその荒廃ぶりにも納得がいく。


※追記。「住所でポン」の2000年版には神道寛次の電話番号が記載されている。住所も載っていて、Google Mapで見れば間口に比して深い奥行で駐車場になっている。