小林信彦『和菓子屋の息子』(新潮社)を読む。副題が「ある自伝的試み」とある。小林の生家は京保年間創業の老舗の和菓子屋だった。店舗兼工場兼住宅は両国にあった。地名が変わって今は東日本橋という。現在の両国は昔は東両国と言った。戦前東京の盛り場の中心はこの旧両国だった。小林の父は老舗の和菓子屋立花屋の9代目だった。立花屋本店は戦後父の9代目で店を畳んだ。小林は自伝とからめてこの老舗の最後を書いておきたいという。ここが本当の下町で、浅草とか隅田川東側は本当の下町ではないし、下町人情とか言われているものは寅さん映画が作ったものだ。葛飾柴又は下町ではなく東京のはずれだ。だから戦前の本当の下町を記録しておきたいという。
あとがきに、「自分の生まれた家と町について記録を残しておかなければならない、と思った」とある。
一つには、〈戦前の下町〉というものが正確に書き残されていない事情がある。明治、大正については色々あるが、昭和となると殆ど無に等しい。昭和10年代のモダニズムの下町、特に家の中の空気をきちんと書いておきたい。
それが成功しているのは、青山に住んでいた母方の祖父が詳しい日記を付けていて、それを参照できたことだ。筆まめで、当時の行事で行った料亭やレストランのメニューまで貼付されていた。
小林信彦は1932年に生まれている。昭和7年だ。終戦のとき中学1年生になった。父親は老舗の旦那でありながらおしゃれで新し物好き、自家用車のオースチンに乗っていた。和菓子屋じゃなくて自動車整備工場をやりたかったという。小林は小さい頃から映画館に通っている。そのことは小林の『アメリカと戦いながら日本映画を観た』に詳しく書かれている。
東京の本当の下町の姿や、老舗の没落の歴史など、今まで書かれていないから本書を執筆したというが、本当に興味深く面白い。社会学者などが調査して外から見た下町を書くことができても、当事者が内側から見て書いたということから大変貴重なものだと思う。それも小林信彦という作家が書いているのだから。
大変面白い読書だった。良くないのは題名だけだった。