金子兜太・又吉直樹『孤独の俳句』を読む

 金子兜太又吉直樹『孤独の俳句』(小学館新書)を読む。副題が「“山頭火と放哉”名句110選」というもの。兜太が山頭火の55句を選び、又吉が放哉の55句を選んで、それぞれ解説をしている。

 兜太の選んだ山頭火の句とその解説、

 

分け入つても分け入つても青い山

 

 1926(大正15)年の『層雲』発表句。句の前書に「大正15年4月、解くすべもない惑ひを背負うて、行乞流転の旅に出た」とある。(……)「多感な戸惑いがちな旅愁」といえるものがあり、次第にそれが深まり、深奥の難あるいは疲れの色を帯びてくる。ともあれ放浪一発目のこの句は、かなりロマンチックな、センチメンタルな句と言った方がいい。

 

鴉(からす)啼いてわたしも一人

 

 1926(大正5)年の『層雲』発表句。句の前書に「放哉居士に和す」とある。この句は、放哉の「咳をしても一人」という句に唱和したものだと思う。二人は一度も会っていないが、山頭火は三つ歳下の放哉を俳句の上では先輩と見ていた。山頭火の『行乞記』を読んでいると、放哉の句を下敷きにし、もじった句にしばしばぶつかる。放哉を念頭におくことが多かったのだ。

 

うしろ姿のしぐれてゆくか

 

 1931(昭和6)年12月22日、山頭火は第3回の行乞に出てゆく。その最初の作として取り上げたいのが12月31日に飯塚町(現・福岡飯塚市)で書きとめたこの句だ。第1回行乞に出るときは、「分け入つても分け入つても青い山」だった。第2回は「しづけさは死ぬるばかりの水が流れて」が記憶に残る。そして、この句にくると、感傷も牧歌も消え、生々しい自省と自己嫌悪も遠のいて、宿命をただ噛みしめているだけの男のように、くたびれた身心をゆっくり運んでいる姿が見えてくる。

 

 兜太は別の時、インタビューに答えて山頭火を語っている。

 山頭火は其中庵在庵中に4回旅をしていますが、2回目の旅が一番長かった。昭和10年12月に其中庵を出立して、東京まで東海道をのぼり、信州から北陸に出て、鶴岡、仙台、平泉まで7カ月余りをかけて行っています。旅の途中の鶴岡で、山頭火は彼を敬愛する和田(秋兎死)の歓待を受けて羽目を外したんです。湯田川温泉で飲み続け、貧しい暮らしのなかにあった和田に全部支払わせて、あげくのはてに浴衣に下駄履きで宿を出て、そのまま仙台へ向かった。自分を好いてくれている人の好意を踏みにじり、自分はいいように金をつかってと、非常に意気消沈したわけです。

 

 なるほど、山頭火って嫌な奴だったんだ。

 

 次いで又吉直樹が選んだ尾崎放哉の句とその解説、

 

入れものが無い両手で受ける

 

 入れものが無いからあきらめるわけではなく、入れものが無いから置いていくわけでもなく、入れものが無いから後日にするわけでもない。それは両手で受けたいなにかであるということだ。ここには底が抜けた柄杓も介在せず、自分の皮膚や筋肉や神経を通して両手で受けるのである。その受けるものとは単に形を持った物質だけではなく、感情のようなものも含まれていたのではないか。だからこそ両手でいただくのだ。

 

咳をしても一人

 

 そもそも病床で俳句を詠むということが既に常人の業ではない。誰でも体調を崩せば仕事を休んで眠るはずだが、放哉は病に伏して衰弱してもなお句を研ぎ澄ませていく。

 誰もいない孤独が満ちた部屋で咳をする。その咳は誰にも届かず、部屋の壁に淋しく響く。一つの咳によって部屋に充満していた孤独や寂寥が浮き彫りになる。その瞬間、それまでもずっと身近にあった「一人」が極まる。そして、その余韻が続いていくのである。

 

 さて、山頭火と放哉の名句110句を読んで、面白い句はあまりないなという印象だった。彼等の自由律俳句は俳句より言葉数が少ない。俳句だって少なくて、その少ない文字で表現するのが難しいのに、さらに少ない文字で表現する自由律俳句の山頭火や放哉に名句が少ないのは当然なのだろう。

 又吉の解説も取り立てて深いものではなかった。おそらく又吉がどこか常識人だからではないか。また、放浪の俳人が周りの知人を犠牲にして生きていたこともよく分かった。