小林敏明『夏目漱石と西田幾多郎』を読む

 小林敏明『夏目漱石西田幾多郎』(岩波新書)を読む。副題が「共鳴する明治の精神」とある。テーマに興味を持って読んだのではなかった。著者小林に興味があったから。小林はきわめて難解な哲学者廣松渉の弟子なのだ。本人は廣松と木村敏に大きな影響を受けたと言っている。廣松のもう一人の弟子が熊野純彦で、先月は岩波書店から熊野の『レヴィナス』(岩波現代文庫)が発行されて、奇しくも弟子二人の著書が同時に出たのだった。
 漱石も西田もほとんど同時代で、帝国大学の本科と選科の違いはあるが同窓生でもあった。二人とも禅に接近し公案に悩んだ。また漱石は『吾輩は猫である』、西田は『善の研究』がベストセラーになる。さらに弟子たちが参集するのも共通する。
 とはいえ、特に漱石と西田を比較する強い必然性は感じられなかった。思想の詳しい内容は小林の『西田哲学を開く』や『憂鬱なる漱石』を参照してほしいと言っているが、西田について触れている次の項が興味深かった。

 漱石との比較で興味深いのは、気づかれるように、ここでも矛盾が思索の原動力となっている。たとえ、現在が過去からでもなく未来からでもないというぐらいの論理は受け入れたとしても、「時は多と一との矛盾的自己同一」であるとか、「非連続の連続」などと言われたりすると、われわれの思考はにわかに混乱をきたすことになるはずだ。「具体的現在」は「時の空間」であり、「時というものがなくなること」であるといった言葉も、普通には明らかな矛盾としか言いようがないが、西田の思索はまさにそこをあちこちと巡っている。特徴的なのは、こういう「論理」はいわゆる論理とはならないということである。「AはBである。BはCである。だからCはAである」というような論理にはなっていない。「彼は学校に行った。だから今家にいない」というような論理でもない。いわゆる因果的論理は成立していないのである。
 冒頭から「…ない」という否定の文末が連発されるが、これも矛盾的思考と無関係ではない。たとえば「多の一でもなく、一の多でもない」といいながら、まもなく「多の一でもあり、一の多でもある」ことを認めている。多と一のペアのみならず、因果論と目的論、過去と未来、連続と非連続、空間と時間というように、ひとつの概念が立てられると、必ずその反対概念ないしそれに準ずる概念が同時に設定され、そのどちらでもあり、どちらでもないという「論理」が繰り返される。

 この辺りは西田の難解な論理を理解するためのヒントになる気がする。
 最後に、「漱石や西田がそれぞれの分野で独創的な思想を発展させることができたのは、彼らが同時に新しい言語の開発者でもあったからである。柄谷行人の言葉を借りていうなら、まさにこの新しい言語「制度」が彼らの「内面」と「内省」を可能にしたといってもいい」と書いている。