難解な文章のこと

 朝日新聞の書評欄に宮崎章夫が「ひもとく/1968年のナックルボール」というエッセイを寄せている(10月6日)。60年代の難解な文章について書いている。

 黒テント佐藤信による『演劇論集眼球しゃぶり』(晶文社・絶版)について、かつて「難解」だと発言したところ、難解だと考えること自体、第三者に否定された。しかし60年代の小劇場演劇、つまり一般的に書けばアングラと呼ばれた一群の創作者は、「わかる」ことをあえて拒否した。なぜなら60年代に登場した彼らにとってそれ以前の演劇の「わかること」が退屈だったのだ。唐十郎の「特権的肉体論」もまた、難解である。なにが書いてあるのかよくわからない。それはあえてそうしているからだ。いったい誰が次の言葉を正しく理解できるだろう。中原中也についてこう書いている。
 「この病者を思う度に、私はこう考える――痛みとは肉体のことだと」
 解釈しようとすればきっと可能だろう。だが解釈など唐十郎にとってむしろ不本意だった。以前、別の場所にも書いたが、歯科医で治療に耐えられず医師に痛みを訴える。すると歯科医師が「痛みとは肉体のことだ」と言えばきわめて難解だ。では東洋医学の治療者、たとえば鍼灸師だったらどうか。「特権的肉体論」とはこうして西洋から安易に輸入された「近代」への鋭い挑発だった。それが60年代の演劇を代表していた。そうした思想が60年代的であり、「特権的肉体論」が68年に発表されたのはまさに時代を象徴している。

 難解といえば、磯崎新の文章も難解だ。対談ではあんなにも分かりやすく発言しているのに。難解に書かないと文章じゃないと考えているのではないかと邪推したくなる。難解な文章で有名なのは西田幾多郎廣松渉にとどめを刺すだろう。誰かが二人の共通点として地方出身者の特質だと書いていた。いや大抵の学者が地方出身者ではなかったか。
 花田清輝の『復興期の精神』(講談社学術文庫)も難解だ。しかしこれは戦時中に書かれたもので、官憲の眼を欺くために韜晦しているのだとの説がある。
 佐藤信の『演劇論集眼球しゃぶり』は持っていたが、事情があって読む前に手放してしまった。『復興期の精神』は13年前に購入したがまだ読んでいない。西田幾多郎の『善の研究』は宮川透の講義を聴きながら1年かけて読んだが難しかった。廣松渉は45年ほど前から一人でぽつぽつ読んでいる。難しいけれどとても魅力的でもある。


復興期の精神 (講談社文芸文庫)

復興期の精神 (講談社文芸文庫)

善の研究 (岩波文庫)

善の研究 (岩波文庫)