藤田正勝『西田幾多郎』を読む

 藤田正勝『西田幾多郎』(岩波新書)を読む。西田の簡単な伝記から始めて、最初の著作『善の研究』を解説する。西田のこの難解な哲学書がなぜ多くの人によって読み継がれてきたのか。それは倉田百三が本書の序文を読み、そこに「個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである。個人的区別よりも経験が根本的であるという考えから独我論を脱することが出来た。」と書かれているのを知って、「独我論を脱することが出来た?! 此の数文字が私の網膜に焦げ付くほどに強く映った。私は心臓の鼓動が止まるかと思った。……私は書物を閉じて机の前に凝(じっ)と坐っていた。涙がひとりでに頬を伝った。……この書物は私の内部生活にとって天変地異であった」と、その著書『愛と認識との出発』に書いたことによるという。
 西田は金沢の第四高等中学時代、校風に反発し退学を余儀なくされる。その後帝国大学に入学するが、高校中退のため本科に入ることができず選科生となる。さまざまな苦難を経て若い時から禅宗に傾倒する。
 西田の哲学に対して左右田喜一郎から西田哲学の名前を与えられる。禅を学んだこともあってか、西田の哲学用語は独自で難解なものが多い。『善の研究』で主張された「純粋経験」であり、後期の「絶対無の場所」「絶対矛盾的自己同一」「行為的直観」「一即多」「非連続の連続」等々の用語だ。
 西田はヨーロッパ哲学とは異なる日本独自の哲学を構築することを目指した。しかしその西田哲学が難解で、私も若いころ挑戦したがよく理解できなかった。宮川透の『善の研究』を読むというセミナーみたいなのにも通ったことがあったが、本当に理解できたという実感は持てなかった。
 本書は難解な西田哲学を分かりやすく噛み砕いて解説してくれる。まだまだ分からない点が多いが、今まで読んだ解説書のなかでは最も分かりやすかった。
 とくに昨年出版されて売れ行きも好調だという佐伯啓思西田幾多郎』(新潮新書)というひどい本を読んだあとだったので、藤田の書の優れていることが印象深かった。
 佐伯の『西田幾多郎』は、書名とは異なって、もともと雑誌『新潮45』に「反・幸福論」と題して連載したものをまとめたものだという。佐伯も「あとがき」で、「もとよりこれは西田哲学の解説書ではなく、私自身の関心と西田哲学を交差させた評論的エッセイです」と書いている。出版社の販売方針で『西田幾多郎』などという標題を付けられたのだろう。それで西田幾多郎の解説書だと思って読んだ私が悪かったとも言えるのだが。
 藤田の本を読み終えて、改めて西田の著書を読み直すか否か、迷っている。まだまだ読むべき西洋哲学の本が山積しているのに、それらを差し置いて西田を読む価値はあるのだろうか。もう1冊、小林敏明『西田哲学を開く』(岩波現代文庫)を読んでみよう。



西田幾多郎―生きることと哲学 (岩波新書)

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西田幾多郎 無私の思想と日本人 (新潮新書)

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