『吉岡実散文抄』を読む

 『吉岡実散文抄』(思潮社)を読む。吉岡は代表作「僧侶」で知られている難解な詩を書く戦後詩人。その難解さは半端ではない。全部で9連ある「僧侶」の一部を引く。

   1


四人の僧侶
庭園をそぞろ歩き
ときに黒い布を巻きあげる
棒の形
憎しみもなしに
若い女を叩く
こうもりが叫ぶまで
一人は食事をつくる
一人は罪人を探しにゆく
一人は自涜
一人は女に殺される


   9


四人の僧侶
固い胸当のとりでを出る
生涯収穫がないので
世界より一段高い所で
首をつり共に嗤う
されば
四人の骨は冬の木の太さのまま
縄のきれる時代まで死んでいる

 本書中に「わたしの作詩法?」という章がある。

(前略)
 わたしは詩を書く場合、テーマやその構成・構造をあらかじめ考えない。白紙状態がわたしにとって、最も詩を書くによい場なのだ。発端から結果がわかってしまうものをわたしは詩とも創造ともいえないと思っている。
(中略)わたしは詩を書く時は、家の中で机の上で書くべき姿勢で書く。いってみれば、きわめて事務的に事をはこんで行く。だから彫刻家や画家、いや手仕事の職人に類似しているといえよう。冷静な意識と構図がしずかに漲り、リアリティの確率が終ると、やがて白熱状態が来る。倦怠が訪れる。絶望がくる。或る絵画が見える。女体が想像される。亀の甲の固い物質にふれる。板の上を歩いている男が去る。つぎに「乳母車」の形態と「野菜」という文字が浮かび出す。キャベツや玉ネギ、ぶどう、とにかく球形体の実相のみが喚起される。そんな連想をつなげる。どうして女中や赤ん坊が不在なのか? わたしの中の乳母車は沼へ沈むべき運搬用に必要なのだ。そのつぎに愛が来てもいいと考える。それはヘッドライトに照らされた、雨傘の二人の愛を永遠なものだと断定すればよいのだ。しかし意識のながれは誰の中にでも豊かに流れる。それを停止することが困難だ。すなわち文字の1行1行に定着させることが。発生したイメージをそのままいけどることが大切である。(中略)
 わたしは自己のなかで一応出来た詩篇はできるだけ手を入れないことにしている。推敲は一見、作品を磨くという行為であるが、又反対に、常識的に、平板なものに改悪する危険がある。或る混沌から生まれた内的なリズムとエネルギーを冷却させる悪作用をおよぼすからだ。(中略)
……詩は感情の吐露、自然への同化に向って、水が低きにつくように、ながれてはならないのである。それは、見るもの、手にふれられるもの、重量があり、空間を占めるもの、実在――を意図してきたからである。だから単純に見えても、多岐な時間の回路を持つ内部構成が必然的に要求される。(後略)

 だいぶ吉岡のことが分かってくる。吉岡は「 テーマやその構成・構造をあらかじめ考えない」、「 とにかく球形体の実相のみが喚起される。そんな連想をつなげる」、「発生したイメージをそのままいけどることが大切」。吉岡の詩はイメージを追求した詩、その極北のかたちなのだ。ある種のマニエリスム
 ほかに尊敬する詩人西脇順三郎へのオマージュや俳人永田耕衣飯島耕一土方巽などとの交流が綴られている。ただ、初出がどこにも記されてなく、いつの時代にどのような媒体(雑誌など)に掲載されたものなのか分からない。それらは最低限必要な情報だと思うのだが。

吉岡実散文抄―詩神が住まう場所 (詩の森文庫)

吉岡実散文抄―詩神が住まう場所 (詩の森文庫)