金子光晴の詩「愛情69」

 谷川俊太郎 編『辻征夫詩集』(岩波文庫)に辻と谷川の対談が収められている。そこで二人が金子光晴の詩が好きだと言っている。

辻征夫  (……)金子光晴は好きですか?
立川俊太郎  ぼくは好きです。もちろん判らないものもありますけど。きっと、あまりにも人生経験が違いすぎて(笑)。『愛情69』というのがとても好きなんです。軽いものかもしれないけど。
辻  ぼくもあれは好きですよ。それに、ああいうエロチックなものを書いた人ってあまりないし。
谷川  そうそう。それは堀口大學よりはるかにいいと思う。

 それで「愛情69」を読んでみた。その詩の全文を引く。

 愛 情 69



 僕の指先がひろひあげたのは
地面のうへの
まがりくねつた一本の川筋。


 外輪蒸気船が遡る
ミシシッピイのやうに
冒険の魅力にみちた
その川すぢを
僕の目が 辿(たど)る。


 落毛よ。季節をよそに
人のしらぬひまに
ふるひ落された葉のやうに
そつと、君からはなれたもの、


 皺寄つたシーツの大雪原に
ゆきくれながら、僕があつめる
もとにはかへすよすがのない
その一すぢを
その二すぢを、


 ふきちらすにはしのびないのだ。
僕らが、どんなにいのちをかけて
愛しあつたか、しつてゐるのは
この髯文字のほかには、ゐない。


 必死に抱きあつたままのふたりが
うへになり、したになり、ころがつて
はてもしらず辷りこんでいつた傾斜を、そのゆくはてを
落毛が、はなれて眺めてゐた。


 やがてはほどかねばならぬ手や、足が
糸すぢほどのすきまもあらせじと、抱きしめてみても
なほはなればなれなこころゆゑに
一層はげしく抱かねばならなかつた、その顛末を。


 落雷で崩れた宮観のやうに、
虚空に消えのこる、僕らのむなしい像。
僕も
君も
たがひに追い、もつれるようにして、ゐなくなつたあとで、


 落毛よ、君からぬけ落ちたばかりに
君の人生よりも、はるばるとあとまで生きながらへるであらう。それは
しをりにしてはさんで、僕が忘れたままの
黙示録のなかごろの頁のかげに。

金子光晴詩集 (岩波文庫)

金子光晴詩集 (岩波文庫)