『辻征夫詩集』を読んで

 谷川俊太郎 編『辻征夫詩集』(岩波文庫)を読む。名前は知っていたが、辻征夫の詩を読むのは初めてだった。カバーの袖に惹句が書かれている。それを引くと、

やさしくて、茫洋として、卑下もせず、自慢もしない――。話し言葉を巧みに使って書いた素直な言葉が生(せい)のリアリティーを映し出し、重層的な、混沌とした時空間を喚びおこす。現代抒情詩の第一人者辻征夫(1939−2000)のエッセンス。

 そうか現代抒情詩か。それで一応読んでみた。あまり好きなタイプの詩ではなかった。いや、私だっていつも田村隆一鮎川信夫吉本隆明なんかの詩ばかり読んでいるわけじゃない。黒田三郎の抒情詩なんかだって好きでたまに読んでいる。でも辻征夫は苦手なタイプの詩だった。その中でいくつか気になった作品。まず亡くなる父親を詠んだ詩「珍品堂主人、読了セリ」の一部。

珍品堂主人、読了セリ


死去のこと
知らすべきひとの名簿つくり
我に託して死にし父かな
(昭和57年7月7日、向島ヨリ父ト二人、車ニテ都立駒込病院ニ向フ。入院ノコト決定セシハ6月末日ナリ。同日、電話ニテ父ニ呼バレ、後事ヲ託サル。大方ハ諸手続キノ説明ナリ。万一ノトキノタメノ名簿、入院マデニ作成ストイフ。タダ聞キ、頷クノミ。車、浅草ノ裏町ヲ通リタレバ、自ヅト懐旧譚出ル。父ノ少年時ヲ過シシ町ナリ。入谷ヲ過ギルアタリデ、名簿、受ケトル。折シモ朝顔市ナリ。)


珍品堂主人読みたし
おまへちょっと探してくれと
死の前日にいひし父かな
井伏鱒二ハ、父ノ大学ノ先輩ナリ。面識ナシ。因ミニ久保田万太郎ハ小学校ノ先輩ナリ。面識サラニナシ。昭和57年9月25日、亀戸駅ビル新栄堂ニテ同書ヲ購入、父ニ渡す。同夜、夕食ノタメ階下ヘ行クトイフヲ説得シテ病室ニトドメ、食事運バセテ父ト晩餐ヲ共ニス。幼児二人アレバ、母、妻ハ階下ナリ。父、「黒い雨」ノコトナド少シ話ス。昭和20年8月7日、近郊ノ山中ヨリ出デ、一兵士トシテ広島市街ヲ歩キシコトアリ。コノコト、30有余年殆ド語ラズ。翌9月26日午後8時30分、2度メノ心筋梗塞発作ニテ死ス。享年72。肺癌手術後60日メナリ。)(後略)

 「昭和57年9月25日、亀戸駅ビル新栄堂ニテ同書ヲ購入」とある。すると、同じ本屋で私とすれ違っていたかもしれない。
 つぎに「吾妻橋」という詩。

吾妻橋


吾が妻という橋渡る五月かな
(昭和20年代のはじめ
裏の家に住む元芸妓が
若かった母にいっている
そばにいる幼児は 彼女の眼に入らない
それがね 奥さん おどろくじゃないの
吾妻橋で浮浪児がおままごとをしているのだけれど
女の子が 男の子の あそこをいじっているのよ
それをアメリカ兵が大笑いしながら見ているの
おおいやだ そうじゃありませんか 奥さん


半世紀が過ぎて いま春雨に傘をさして
さして読まれもせぬ詩を書く男が橋を渡る
かつてこの川のほとりで 流れ寄る櫛を見て
吾が妻よ と呟いた男があったとか――


枕橋を過ぎ 長命寺の裏を通って
昭和20年3月10日にも焼けなかった
路地の迷路に 男は消える)

 詩の内容にごちゃごちゃ言うのも無粋だけれど、「かつてこの川のほとりで 流れ寄る櫛を見て/吾が妻よ と呟いた男があったとか」は訂正したい。弟橘姫の櫛が流れ着いたのは隅田川ではなく、当時東京湾に面して浜辺だった今墨田区の吾嬬神社ではなかったか。この詩では、あたかも隅田川のほとりに流れ着いたように読めるではないか。
 本書の最後に辻征夫と谷川俊太郎の対談が収録されている。そこで谷川が語っている自己の詩作についての言葉がおもしろかった。

……ぼくは、自から湧き上がってきて詩を書いたという経験はほとんどないですね。こう言い切ってしまうと少し不正確で、実際にはあることはあるんです――つまり、どの注文の詩でも湧いてこなきゃ書けないんだから。でも、ぼくは10代の頃から詩が書きたいと思って書き始めた人間じゃないでしょう?
(中略)
……何を書きたいということもあまりなく、詩とはこうあるべきだということもあまり考えず、何か、こう、書ケテシマウ、という感じ。この書ケテシマウという所にたぶんぼくの一番の問題があるんだろうと思います。

 現代の抒情詩って言ったら、清岡卓行とか立原道造を連想してしまう。さて、辻征夫はもう読まないだろう。


辻征夫詩集 (岩波文庫)

辻征夫詩集 (岩波文庫)