塚本邦雄『定家百首』を読む

 塚本邦雄『定家百首』(河出書房新社)を読む。前衛歌人塚本が天才歌人藤原定家の数多い和歌から秀歌百首を選んでその現代語訳と鑑賞をまとめたもの。定家といえば新古今の最重要歌人で極めて技巧的な複雑な歌を詠んだ歌人、それを鑑賞する塚本は前衛歌人の最右翼であり、象徴的でこれまた極めて難解な短歌を作っている。
 その具体的な鑑賞を見てみると、(漢字は新字に改めた)

36 袖のうへも恋ぞつもりてふちとなる人をば峯のよその瀧つ瀬


  見ねば涙の出ぬものを
  恋はこころの峰に湧く
  みなかみの瀧すゑは淵
  重ねる逢ひの袖たもと
  さても夜毎の浮き沈み


  筑波嶺のみねより落つるみなの川こひぞつもりて淵となりける  陽成院
 結句が「なりぬる」となつて百人一首にも採られた『後撰集』にただ一首の狂帝の作は、ここでさらにすさまじい恋歌として蘇つてゐる。筑波山の歌垣の間歇遺伝めいた注釈もある本歌からこの歌まで来ると、恋歌もまことに複雑を極め異趣を誇るやうになつたものだと感に堪へない。もつとも、恋歌は定家の独擅場であり奇手はいまさら驚くこともないが、それにしても、この恋は手が籠んでゐる。
 上句は筑波ゆづりを袖の下にしてまつ人を驚かすのだが、下句は「峯」すなわち「見ね」従つて見ぬ恋のうらみを瀧に懸け、しかもその瀧は「よそ」であるとする。「見ね」なればこそ「よそ」に響く。涙はたぎち流れて袖の上に淵をなすといふ表現は、誇大を越えて狂気に近い。かやうな物狂ひめく措辞も中世では多多常用されてはゐるが、そこまでいつはらねばまことが表現できぬと信ずる心ばへも亦、すでに尋常ではないのだ。(後略)

77 かきやりしその黒髪のすぢごとにうちふすほどはおも影ぞ立つ


  漆黒の髪は千(ち)すじの水脈をひいて私の膝に流れてゐた 爪さし入れてその水脈を掻き立てながら 愛の水底に沈み 私は恍惚と溺死した
  それはいつの記憶
  水はわすれ水
  見ず逢はず時は流れる
  この夜の闇に目をつむれば あの黒漆の髪は ささと音たてて私の心の底を流れ
  その一すぢ一すぢがにほやかに肉にまつはり 溺死のおそれとよろこびに乱れる


 定家の恋歌は非凡であるが、この黒髪の一首は屈指の作であらう。特にその冷え冷えとした官能美は比類がない。自分の手でねんごろに愛撫してやつた女の髪の一すぢ一すぢが寝てゐる間はまざまざと目に浮ぶといふ溜息のやうな歌であるが、「すぢごとに」とはよくも言ひ得たもので、その巧みさには読む方も溜息が洩れるばかりである。その黒髪のすぢごとに愛欲はさざなみ立つ。第2、3句はまさにこの歌の命であり、短調ソロの最高音ピアニシモである。この12音のために一首は妖しい光沢を放つのだ。現代にも十分通用する感覚であり、無数の本歌取が生れてよいはずだが、今日にいたるまで晶子のおごりの自画自賛以外おもかげを伝へるものもなく、よしあつてもこれほどの風韻はこもらぬだらう。なほ「すぢごとに」は勿論細かく明らかにの意でありながら、「かきやりし」の動作にまでかかはるやうな感じがするのも至妙である。(後略)

 塚本の「鑑賞」に手助けされて定家の歌を読むと、ようやく定家の歌のすごさが分かる。技巧家だからこそ技巧家が理解できるのだろう。みごとなものだ。本歌取りし、掛詞を駆使し、イメージを重ね、技巧をつらねている。もう現代の読書人には適切な道案内人がいなければ定家は分からないのではないか。定家を頂点とする新古今の世界が和歌のマニエリスムになっている。それはそれで見事なものだと思うけれど、塚本の100分の1ほども学んで、やっとその一端が分かってくるような世界らしい。ではまた遠いいつか他の人の鑑賞を読んでみよう。
 最後にひとつ。塚本の現代語訳はいただけない。もっと逐語訳または即物的な訳が読みたい。


定家百首・雪月花(抄) (講談社文芸文庫)

定家百首・雪月花(抄) (講談社文芸文庫)