日本では美術批評のクライテリアがない

 以前私が書いた岡本太郎に関するエントリーのコメント欄で、「批判の仕方が薄っぺらい。人の意見ばかり借りていないでもう少し自分の主張の根拠を書くべきではないか」と、批判された。岡本太郎のどこが悪いのか根拠を示せと。それが難しい。良いか悪いかは一目見れば分かる。それを理論的に語るのは難しい。なぜ夏目雅子が美しく林真理子がそうでないかを理論的に語るのが難しいように。
 野見山暁治が書くように、個展の会場に一歩踏み入れれば作品が良いか悪いかすぐ分かってしまう。とにかく分かってしまうのだ。なぜ良いのだろう、なぜ悪いのだろう。なぜ夏目雅子は美しく、林真理子はそうでないのだろう。
 ずいぶん昔になるが、ギャラリイKで美術評論家椹木野衣トークショーがあった折り、吉田暁子が椹木に対して、日本には(美術に関して)クライテリアcriterionがないと批判した。私が吉田にその言葉の意味を問うと、基準のことだと教えてくれた。
 日本には美術の基準がないとの指摘はその通りだろう。だが唯一の基準が必要なのかと疑問に思ったのだった。それがないからこそ、美術の多様性が生じている。さまざまな美術運動が可能になっている。すべての美術を共通して批評できる絶対的な基準がもしあったとしたら、美術が多様化することはなかっただろう。相互に矛盾する様々な美術運動を可能にしたのはこの絶対的な基準が存在しなかったからではないのか。あるのは様々な美術運動を支えるそれぞれの基準なのではないか。
 山口長男や野見山暁治を評価する基準と、会田誠山口晃を評価する基準は別のものだろう。ミニマリスムとシュールレアリスムを評価する基準も異なっている。それは是とすべきではないか。