制作の背後にはシステムがある

 以前、セゾンアートプログラム主催の講演会での美術評論家の峯村敏明さんの発言「制作の背後にはシステムがある」という言葉について、「美術のシステムとは何か」(2008年5月14日)というエントリーを書いた。

 ガルリSOLで個展をしている秋山一郎さんと話した。峯村敏明さんの講演会での発言を引いて「制作の背後にはシステムがある」の意味について、抽象とか具象を作家(画家)が主体的に選ぶのではなく、作家はそのようなシステムの中に生まれ落ちるということではないかと話した。そして昔はそのシステムが抽象だったのに、最近はそれが具象になっている。ことさらシステムを飛びだそうとか壊そうと思わなければ、現代の若い作家は具象を描くのではないかと言った。それに対して秋山さんは、最近の若い作家は平面としての具象を描いているのではなくて、映像ではないかと言う。平面として構成しているのではなく、映像を描いているのだと言う。平面には構成があるが、映像にはそれがないと。いつも思うことだけれど、作家の思考は深い。
 さて、そのシステムに戻ると、時代のシステムがすでにあり、作家はその中に産み落とされる。ある時代は抽象であり、ある時代はニューペインティングなのだ。作家はそのシステムの中で仕事を始めるが、中には反抗して自覚的に別のシステムを選ぶ作家もいる。少数だが。

 たまたま峯村さんに会ったので、そのことを聞いてみた。それとは少し違うと言われた。たとえていえばノーム・チョムスキーの言語観に似ている。芸術は先験的なシステムであり、人間に先だってあるという。つまり峯村さんの定義は私が考えたものよりもっと大きなものだった。
 ただ、先験的なシステムであるとか、人間に先だってあるという主張は検証されがたいのではないか。しかし検証されがたいとすれば、正しいとも誤りとも言えないだろう。あるいは動物に芸術があることを証明すれば検証されたと言えるのだろうか。そのとき、「芸術」の定義が問題になるだろう。ここでは無難に「時代のシステムがすでにあり、作家はその中に産み落とされる」というあたりでお茶を濁しておけばいいのかもしれない。