現代アートは感じるものか?

 高階秀爾『ニッポン現代アート』(講談社)の書評で、原田マハが「現代アートとは、わかるものではなく、感じるものだ」と言っている(朝日新聞、2013年6月23日)。そうだろうか。原田は書く。

 少し前に、現代アートの美術館を女性雑誌の編集者とともに訪れた。その人は、「恥ずかしい限りですが、私、現代アートというのがよくわからなくて……」と正直に打ち明けた。私は答えた、「わからなくて当然ですよ、私だってわからないんですから」と。
 私も、かつて現代アートを「わかろう」と努めた時期がある。次々に登場する最先端の表現を、ある種の類型や流派に当てはめて、「多分、こういうことだろう」と結論してみたりもした。しかし、ようやく「わかった」のは、現代アートとは、わかるものではなく、感じるものだということだった。

 編集者の言葉を「正直に打ち明けた」と引くのは変だろう。それはさておき、現代アートが分からないということについて、以前にも書いたがもう一度触れてみたい。
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 まず、ほとんどの人が分からないと言う抽象絵画について。
 抽象絵画が分からないと言われる。それに対して、あなたはネクタイを選ぶだろう、ネクタイの柄は抽象ではないかと言う。つまり抽象を選んでいると言うのだ。しかし、これは正しくない。野見山暁治や山口長男のように、優れた抽象画は人を感動させるが、ネクタイの柄は誰も感動させないからだ。
 抽象画が分からないという言葉の裏には具象は分かるのにというのがある。具象は誰でも分かると思われている。そうだろうか。
 コリン・ウィルソンの著書からの孫引きなのだが、アラビアのロレンスことT.E.ロレンス著『知恵の七本柱』に次のようなエピソードが紹介されているという。
 ある時、ロレンスがともに戦っていた砂漠の民ベドウィンに彼らの顔を描いた紙を渡した。ベドウィンたちはそれをいろいろな角度から眺め、最後に紙をひっくり返してラクダだと言った。逆さにした時のあごの線がラクダのこぶだと言うのだ。
 ベドウィンたちはイスラムなので偶像崇拝を禁じられている。人を描いた絵など見たことがないのだろう。われわれが具象を先験的に分かると思っているのは、単にわれわれが小さな時から人が描かれた絵など、具象を見慣れているからではないのか。このベドウィンのエピソードは、重要なことを語っている。具象ですら訓練しないと理解しがたいことを示しているのだ。
 普通の人は抽象絵画が分からない。抽象絵画を見る訓練がされてないからだ。具象にしろ抽象にしろ、それを見る訓練がされなければ分からないのだ。
 抽象を分かるためにするべきことは何か。たくさん見ることだ。繰り返したくさんの作品を見ることだ。すると、ある日抽象絵画が分かり始める。
 では現代美術はどうか。作品の前に立って感じていればよいと言うのだろうか。デュシャンの便器の前で、瓶乾燥器の前で何を感じていればいいというのか。キーファーの鉛のベッドを見て、何て重たそうだと感じていればいいのか。ジャッドのからの箱、底のない箱が並んでいるのを見て何を感じていればいいのだろう。
 たぶん現代美術こそ考えることを要求するのだ。作家は何を考えてこの作品を制作したのか。作家のそれをさせたのは何なのか。個人的な体験なのか。社会がそれを要請したのか。美術のどんな伝統、どんな歴史、どんな潮流が作家のそれを作らせたのか。感じているのではなく、考えなければならないだろう。
 そういう意味では、現代美術も現代音楽も現代詩も難解なところに行ってしまったのだ。鑑賞する者が努力しなければ理解が難しいことになってしまっている。簡単に分かろうとすることができない世界なのだ。
 高階秀爾は『ニッポン現代アート』で、この難解な現代美術をよく読み込んでいるではないか。だからこの本も、前著『日本の現代アートをみる』(講談社)も優れているのだ。


『ニッポン現代アート』はお勧めだ(2013年5月14日)


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