『絵描きと画材屋』を読む

 『絵描きと画材屋』(亡羊社)を読む。副題が「洋画家・野見山暁治と山本文房堂・的屋恭一の五十年」というもの。野見山が中学生のころから通った博多の画材屋山本文房堂の2代目店主との対談を、井口幸久を聞き手としてまとめたもの。
 山本文房堂はもともと東京神田の文房堂の福岡支店として昭和7年に開店し、戦後山本文房堂として独立した。野見山は昭和8年に福岡県嘉穂中学に入学し、美術部に入部して山本文房堂に通うことになる。
 興味深いエピソードを拾ってみる。

――的野さんが山本文房堂に入られたのはいつのことでしょうか?
的野  1962年(昭和37)です。
――アンフォルメルの大旋風が巻き起こるのが、その少し前じゃないでしょうか?
野見山  そのころ僕はパリにいたわけですが、日本から送られてくる美術雑誌が、もうアンフォルメルだらけになっているので驚きました。フランスではごく一部の人がやっていた運動に過ぎなかったんですけどね。

 野見山がアンフォルメルは「フランスではごく一部の人がやっていた運動に過ぎなかった」と言っている。
 池田龍雄さんの話では読売アンデパンダンが潰れたのは、アンフォルメル風の作品が大量に応募されてきたためだという。なるほどデッサン力も不要で絵具を流し込んだだけのようなものでもアンフォルメル風に見えるのだから、そんな作品?が乱造されただろうことは想像に難くない。
 平成元年、的屋は野見山をただ一人の審査員にして福岡で公募展の「サムホール展」を始める。

――西日本美術展の審査に立ち会ったときのことですが、第1次審査で全員がいいといった作品が途中で落ちてしまったことがあったのです。普通は1次審査で全員がいいといったんだから、これが特選になるだろうと思いますよね。あれは不思議ですね。
野見山  みんなが手を挙げた作品っていうのは、つまり欠点がないんですね。ところがそれは「落とす理由がない」というだけのことなのです。及第点に入っているだけですね。

 小さなことだけど、校正ミスがあった。126ページ、「芸大で教えているときに、科学変化を起こすから、これとこれを混ぜたら駄目だよって言ったら〜」と「科学反応が起きますから、酸性とアルカリ性を混ぜてはいけなかったんですね」の「科学変化」と「科学反応」はどちらも「化学変化」と「化学反応」の間違いだ。
 本書のところどころに掲載されている写真に「野見山暁治財団提供」とクレジットがあった。すると、計画されていると聞いていた財団が発足したようだ。実はあまり売れない野見山さんの絵の大量の在庫はこの財団に寄贈したのだろう。良いことだと思う。

絵描きと画材屋 〜洋画家・野見山暁治と山本文房堂・的野恭一の五十年

絵描きと画材屋 〜洋画家・野見山暁治と山本文房堂・的野恭一の五十年