丸谷才一「月とメロン」を読んで

 丸谷才一のエッセイ集「月とメロン」(文春文庫)を読んだ。雑誌「オール讀物」に連載したものだ。ちょっと軽いが蘊蓄が深くて気ままな読書にぴったりだ。例によって、おもしろいところをつまみ食いすると、

 百目鬼恭三郎に『現代の作家一○一人』という本があつて、これはもともと朝日新聞文化面に1973年2月から75年5月にかけて『作家Who's Who』なる題で連載したもの。いかにもこの筆者らしいヅケヅケした筆致、大胆不敵な書きぶりで、しかしツボはキチンと押さへて書いてゐて、玄人筋には好評でありました。たとへば平野謙さんは私に向つて、「よく出来てゐる。第一、しつかりと読んでゐる」と評したことがある。それなのにこの連載はなかなか本にまとまらなかつた。朝日の出版局が出さうとしなかつたのだ。
 これはまあ、無理もないと言ふことができる。新聞に連載してゐるだけなら、いくら無遠慮な書き方をしようが、さらに、大人気作家を扱はなからうが、何日か経てば忘れられる。単行本にすればさうはゆかない。證拠物件としてすぐ差出される。ヤバい。出版局はさう思つたのぢゃないか。(中略)
 何しろこの101人のなかには、司馬遼太郎も、松本清張も、丹羽文雄も、三島由紀夫も含まれない。あつさりと敬遠されてゐる。さらに井上靖歴史小説については、取材の慎重さは大したものだが、「いくら歴史的事実の断片を復元して積み重ねても、それだけで歴史が生き返ってくるものではない。(中略)歴史小説というものは、そこに描かれた人物、事物のすべてが、ひとつの方向に流れている感じを与えなければならないのだ」。
「その点、井上の歴史小説は奇妙なほど静止していて、歴史の流れを感じさせないのである」などと断定したあげく、大岡昇平が『元朝秘史』にもとづく『蒼き狼』を「現代家庭小説」と決めつけたのは「この、歴史の流れの欠落をいい当てたもの」などと述べて、井上の論敵の肩を持つ。
 あるいは当時の女流作家のうち鬱然たる権威を持つてゐた円地文子について、「ひび破れて砕ける」なんて語法はをかしいとか、「アビリティ(能力)」を「可能性」と訳すのは「無造作」にすぎて、「町人文学の言語感覚」だと批判する。ほとんど無学呼ばはりするに近い。

 永井龍男については、19の年に菊池寛に激賞されてから「50年間というものは、作品を発表するたびにきまって『短篇の名手』とか『名人藝』といったほめられかたをし続けてきたのだ(後略)」と言って、

「いつもおなじほめられかたをするのは、実は、これ以外にほめようがないからなのだ」と念入りにくさす。そしてこれは永井の生地である神田の職人文化にふさはしい「みせかけ」「思わせぶり」の藝であり、「おなじ神田の生まれでも、小林秀雄高橋義孝らは、進学することによって曲がりなりにここから脱皮できた。そういう機会に恵まれなかった永井は、ほとんど宿命のように、身についた『思わせぶり』の藝をみがきあげるほかはなかった」なんて、学歴の低さを云々する、禁じ手すれすれの手さへ平気で使ふ。

 いや面白かった。丸谷才一、人の口を借りて言いたいことを言っている。私はさらにその尻馬に乗っている?


月とメロン (文春文庫)

月とメロン (文春文庫)

現代の作家一〇一人

現代の作家一〇一人