司馬遼太郎「街道をゆく 12 十津川街道」(朝日文庫)を読み直す。今回28年ぶりに読み直そうと思ったのは、奈良県十津川渓谷が台風による大雨の被害を受け、大きな土砂災害がニュースで報じられたからだ。十津川は以前司馬遼太郎が「街道をゆく」で旅していたことを思い出した。
十津川郷とは、いまの奈良県吉野郡の奥にひろがっている広大な山岳地帯で、十津川という渓流が岩を噛むようにして紀州熊野にむかって流れ、平坦地はほとんどなく、秘境という人文・自然地理の概念にこれほどあてはまる地域は日本でもまずすくないといっていい。
こんにちなお、町村合併に応ぜず「村」を呼称している。村そのものが大山塊だが、その無数の山々のしわをのばして平坦地の面積にすると、昭和初期までの東京市のひろさにほぼ匹敵するという。「村」としての面積でも日本一だが、人口密度においても1キロ平方あたり十数人で、古来、その過疎ぶりまでが日本一だとして村人たちは自慢する。
十津川は米が採れなくて幕府から年貢を免除されていた。要するに山ばかり斜面ばかりで水田がないのだ。渓谷を十津川が流れ下っている。明治22年に豪雨で山々が土崩して「各地で渓流を埋め、流れをせきとめ、にわかにできた湖が大塔村、天川村をふくめて50いくつにもなったというぐあいで、このため水没・流出・倒壊した人家は数知れず、死者は168人、罹災者は2600人にのぼった」。「一郷が合議のすえ、2600人が村を捨てて北海道の荒蕪の地に新十津川村(現・新十津川町)をつくるべく移住するのはこの直後である」。この2600人というのは村民の2割強だった。
幕末、新撰組に追われて十津川郷まで逃げ込んだ志士がいた。後の田中光顕伯爵だ。田中について司馬は書く。
田中光顕は土佐人で、ごくつまらない人物だったが、ただ生き残ったのと、游泳術のうまさで伯爵になっていた。
さて、十津川出身者というと詩人で出版社金の星社の編集長だった野長瀬正夫を思い出す。ユーモア詩人だった。詩集「夕日の老人ブルース」(かど創房)より。
煩悩無残
もういっしょに寝るのはいやです、
と老妻が言い出したので
「ほならやめとこか」と軽く受け、
二階と下で べつべつに寝ることにした
それから何年かたった
おれはずいぶん修養をつんだつもりであるが
この世の名残りに
せめてもう一ぺんだけ、という気が起った
しかし、おれはこれでも精神派だから
だれとでもいいという訳にはいかない
思案にあまって ある晩、
下の部屋へ降りていったところ
老妻の寝床には 白髪の山姥(やまんば)が
頭だけ出して眠りこけていたので
おれは諦めて そっと引き返した。
・野長瀬正夫の詩(2007年6月22日)
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