吉田喜重監督の作品を追いかけていた

 ヴィスコンティが1972年に制作した映画「ルートヴィヒ」の完全版をシネマヴェーラ渋谷で見た。上映時間4時間の完全版、途中全くだれることがなく至福の時間を体験した。豊かな映画だった。
 ヴィスコンティを見たのは昨年の「山猫」完全版に続いてやっと2本目だった。山猫も3時間の長尺で、以前2時間ヴァージョンで公開されたときに削られたという舞踏会のシーンが1時間もあったのに、それが少しも長さを感じずに楽しめたのは演出の見事さなのだろう。
 ヴィスコンティの映画が公開されていた頃私が見ていたのは吉田喜重の映画だった。1966年の「女のみずうみ」から1973年の「戒厳令」までいずれも封切りで9本を見、さらに初期の作品も見ていた。今夏シネマヴェーラ渋谷で「吉田喜重レトロスペクティブ」という特集があり、3週間で吉田の長編19本が上映された。今年パリのポンピドゥセンターで吉田の回顧上映会があり、それを日本でも再現したのだった。
 吉田喜重大島渚篠田正浩らとともに松竹ヌーヴェルバーグの一人としてデビューし、やがて独立プロ現代映画社を作り岡田茉莉子を主演にした映画を発表していった。松竹ヌーヴェルバーグとはフランスのヌーヴェルバーグ運動、トリュフォー、シャブロル、ゴダール、レネなどの若い監督の起用の成功に影響されて、松竹で若手の監督を起用したもの。
 今回吉田喜重の長編全作品が上映されたが、私はその内独立する前後からの10本を見た。「秋津温泉」(1962年)、「水で書かれた物語」(1965年)、「女のみずうみ」(1966年)、「情炎」(1967年)、「炎と女」(1967年)、「樹氷のよろめき」(1968年)、「さらば夏の光」(1968年)、「エロス+虐殺」(1970年)、「煉獄エロイカ」(1970年)、「告白的女優論」(1971年)。
「秋津温泉」は藤原審爾の原作、「水で書かれた〜」は石坂洋次郎の母子近親相姦が原作、「女のみずうみ」は川端康成、「情炎」は立原正秋を原作としている。それ以外はオリジナル脚本、吉田が山田正弘や石堂淑朗などと組んでいる。
 こうしてまとめて見ると封切り当時分からなかったことが分かってくる。まずいずれも台本が良くない。生硬なのだ。会話も苦手だったようで、脚本に詩人の高良留美子や大野靖子に参加してもらっている。
「女のみずうみ」から「樹氷のよろめき」までは女の性がテーマになっている。それがどうも図式的なのだ。性愛のシーンはワンパターンだし、主人公たちより一世代下の若者たちの描き方はステレオタイプにさえなっていない。ともかく若者たちの遊びを描くのが下手で、彼らが全く分かってないのではないか。
 良いところは映像の美しさで、成島東一郎、鈴木達夫、奥村祐治など、良いカメラマンを選んでいて、構図は凝った見事なものだ。
「エロス+虐殺」と「煉獄エロイカ」は政治をテーマにしている。今回見た「エロス〜」はロング・ヴァージョンで4時間近い。大杉栄伊藤野枝市川房枝辻潤の男女関係が主体で、政治的な色彩は少ない。市川房枝大杉栄を刺す日陰茶屋のシーンは「藪の中」のように異なったいくつものヴァージョンが繰り返される。見ているのが辛い4時間だった。「煉獄エロイカ」は革命党の内ゲバを描いているようだが、何とも不消化な描き方だった。
「さらば夏の光」は日本航空がスポンサーの観光映画。主演男優の横内正がミスキャストだったと思う。この人NHKの朝の連続テレビ小説鉄道員だったし。
 中ではメロドラマチックな「秋津温泉」が最も良かった。しかし主演の岡田茉莉子演ずる旅館の娘を際立たせるため、原作の小説家が本当に好きだった美しい娘を脚本から消してしまったので、映画ではなぜ二人が一緒にならないのか説得力に欠けてしまう。
 吉田喜重をまとめて見て、その後でヴィスコンティの「ルートヴィヒ」を見たので、前者が痩せて貧しい映画だったことが明らかになってしまった。それはとても残念なことだった。
 もし若い頃吉田でなくてヴィスコンティを追いかけていたら、私の人生も少し違っていたかも知れない。