肉体の衰弱について

追悼の達人 (新潮文庫)
 40歳前後の頃、性的能力の衰えを自覚した。こんなはずではないと1、2年じたばたした。そんな記憶があるが、どのようにじたばたしたかもう憶えていない。しかし結局これでいいのだと了解した。いつまでも若いときのようであっては恥ずかしいことではないか、年齢相応に衰えたのは自然なことだ。そのように考えて、それからその状態を引き受けることができた。
 昨年春親父が胃癌の末期を宣告され、数ヵ月の命だと知らされた。それから見舞うたびに親父の衰弱を見ることになった。親父はどんどん衰弱していった。その過程を体験していたために夏の死が受け入れられたのだった。これが突然の死だったらどんなに辛いことだろう。
 自分が老いていって衰弱していくのはいいことだ。それはかすかながら自分の死を受け入れていく、了解していく過程なのだろう。死を完成と考えれば、老いも衰弱も完成への重要な過程なのだ。
 あまり長生きはしたくないと思う。長生きしたら友だちがいなくなると嵐山光三郎が「追悼の達人」(新潮文庫)で書いていた。追悼してくれる友人がいる内に消えたいものだ。さて。