池田満寿夫のピアノの絵

 池田満寿夫にピアノの版画がある。鍵盤が描かれているが、白鍵と黒鍵の位置がでたらめなのだ。池田の奥さんはバイオリニストの佐藤陽子だ。彼女がこのピアノの鍵盤の位置についてクレームをつけたが画家は取り合わなかったという。
 自分の絵は写実ではないのだからと思っていたのだろう。しかし音楽家にとって鍵盤をでたらめに描くのは譲歩できないだろう。
 以前森ビルグループのリゾートホテルのポスターを見ている若いサラリーマン二人が、テニスラケットを持っているポスターのモデルが硬式なのに軟式の持ち方をしているとか言っていた(この辺正確なことはよく分からない)。別のポスターではバイオリンを弾いている女性がモデルだが、このバイオリニストは駒の内側の弦を弾いている。ここを弾いても音が出るはずがない。
 これらは、デフォルメはどこまで許されるかという問題に置き換えることができる。
 ピカソキュビスムは、どこまででも許されると答えた。そうだろうか。徹底した場合には許されて、不徹底なわずかのデフォルメは咎められるのかも知れない。キュビスムの場合は前提として徹底しているのだ。だからどこまででもと言いうるのだろう。すると池田の場合は許されるだろう。