橋爪大三郎『死の講義』を読む

 橋爪大三郎『死の講義』(ダイヤモンド社)を読む。「はじめに」で「この本は、死んだらどうなるかの話です」と書かれている。橋爪は必ず訪れる「死」に対応するために世界各地の宗教を解説していく。世界の宗教を大きく分けて、一神教ユダヤ教キリスト教イスラム教)、インドの宗教(ヒンズー教、仏教)、中国の宗教(儒教、仏教、道教)、そして最後に日本の宗教を取り上げる。

 日本の仏教は天台宗真言宗念仏宗禅宗法華宗。そして儒学国学、平田神道

 一神教キリスト教イスラム教)は人間は死んでも死なないと考える。やがて復活する。

 ヒンズー教は死んだら輪廻すると考える。輪廻するとまもなく別の人間や動物に生まれ変わる。インドの仏教は、真理を覚れば仏(ブッダ)になり、覚らなければ輪廻を繰り返すと考える。

 中国で生まれた禅宗では、正しい座禅をすれば誰でも仏であると説く。そう言えば、私も19歳のときに、悩んで訪ねた渕静寺(曹洞宗)の小原泫祐和尚さんから座禅を教わり、その時座禅をしていれば仏だと言われたことを思い出す。

 中国の儒教は「忠」と「孝」である。忠は政治的リーダーに対する服従、孝は血縁集団の年長者、とくに親に対する服従だ。橋爪は、祖先崇拝は自分が死ぬことから巧妙に眼を背ける仕組みなのだと言う。そして道教は、死ぬと地獄に下ると考える。

 日本の仏教では、念仏宗は信仰があれば仏になると考える。禅宗は世俗の職業の務めに集中すれば死を超越できると考える。法華宗は菩薩行の実践、「南無妙法蓮華経」の題目を唱えることを重視する。それが仏の道だから。

 さて、私は自分が死んでも、家族や世の中は存在すると思っている。橋爪によれば、これも立派な「信仰」だとのこと。私もがんを宣告されてから死を具体的に考えるようになった。死はありふれた事柄だ。何も特別なことではない。日常の延長上に淡々と受け入れれば良い。両親も祖父母も先輩たちも友人たちもそのように亡くなっていった。私もその時が来たら静かに去って行こう。

 振り返れば幸せな人生だった。ほとんど思い残すことはない。いや、思い残すことはないことはない。でも誰だって思い残して死んでいくのだ。そのことに不満はない。

 本書に戻れば『死の講義』とは、やや羊頭狗肉のそしりがあるのではないか。