長谷川櫂『俳句と人間』を読む

 長谷川櫂『俳句と人間』(岩波新書)を読む。岩波書店のPR誌『図書』に2019年10月から2021年10月まで連載したエッセイ。これが素晴らしい。冒頭、右太腿に皮膚がんができていたという個人的な話題から始まる。そこから正岡子規脊椎カリエスと診断されたときの心境について語る。さらに池袋駅前の元通産相幹部の87歳の男のプリウスの暴走によって母子が死亡した事件を取り上げる。また子規から明治天皇の新国家の施政方針「五箇条の御誓文」を紹介し、『坂の上の雲』の司馬遼太郎司馬史観には見落としがあったと書く。司馬は明治の指導者たちを手放しで賛美したが、彼らを動かしていた国家主義を過小評価していたのではないか、と。

 漱石が鎌倉の円覚寺に参禅したという話から、ロンドン留学、『吾輩は猫である』の執筆の経過に触れ、『こゝろ』を取り上げて、「この小説はまさにお金と性に弄ばれる人間の滑稽な姿を描いている」、その滑稽な姿を描くのが文学だという。

 皮膚がんが見つかったころ鼠径部ヘルニアの手術も受ける。手術が終わってトイレへ行きたくなって看護士に支えられて数歩歩いたところで意識を失ってしまう。そこから漱石の「修善寺の大患」に飛び、漱石も吐血直前に人事不詳に陥ったことを記す。ここから漱石は死の考察を始める。

 長谷川も死の思索をつづける。「死」という言葉は漢字の音読みである。死も死ぬも大和言葉にはない。それに相当するのは「なくなる」「ゆく」「みまかる」で、これらには漢字の死にある厳粛な断絶の響きがない。ある場所から別の場所へのゆるやかな移動で、古代の日本人は漢字の死のようには死ななかったと長谷川は言う。

 芭蕉の『おくのほそ道』を取り上げる。いくつもの寺を訪ねるが、江戸に近いところは鎌倉仏教(臨済宗曹洞宗)だが、その外側に平安仏教(真言宗天台宗)という二つの宗教県が広がっている。もとは平安仏教の領域にあとから鎌倉仏教が広まったことがわかる。その外側は仏教伝来以前の宗教圏で、松島には風葬の跡がある。

 さらにダンテが語られ、ブレイクが紹介される。ダンテの地獄から近代の刑務所に話が飛んで、赤穂浪士の仇討が比較される。

 平家物語平知盛の「見るべき程の事は見つ。いまは自害せん」から、河野裕子の最後の歌「手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が」に繋がれる。

 2016年の上皇の「お言葉」が引かれ、日本国憲法アメリカ合衆国憲法が比べられる。

 長谷川の皮膚がんは再発する。個人的な事柄から古代や外国のことまで、驚くような跳躍でエッセイが綴られる。見事な展開でその超絶的な飛躍にただただ驚いて読み進めた。長谷川櫂がこんなに優れたエッセイストとは知らなかった。