司馬遼太郎『この国のかたち 五』(文春文庫)を読む。雑誌『文藝春秋』の1994年から1995年の巻頭言として連載されたもの。本書では特に神道について7回も書き継いでいる。
ここで言っておかなければならないが、古神道には、神から現世の利をねだるという現世利益の卑しさはなかった。
古神道はただ山とか岩などを崇めていて、拝殿などはなかった。拝殿ができたのは、仏教が伝わったのち、それを見習って作ったのだった。教義もなかった。神々は論じない。神々とは山や川や滝や海だから、それらが仏教や儒教のように論をなすことはない。
それが中世になって能弁に語り始めた。中世に書かれた代表的な神道論が吉田兼倶の著作だった。「吉田兼倶には、『神道大意』『神道私顕抄』などの著作があるが、こんにちの目には虚偽の匂いが濃く、やはり神道には沈黙がふさわしいかと思えたりする」。
神道に思想的な体系をあたえた最大の功労者は、江戸後期の国学者平田篤胤だった。篤胤は、国学を一挙に宗教に傾斜させた。神道に多量の言語をあたえた。篤胤の死後、“平田国学”を奉じた弟子たちが、“尊王攘夷”を唱えた。しかし、明治維新後、神社が国家神道に転換したとき、平田国学は捨てられた。国家神道の教義にするには、あまりにも宗教臭がつよかったからだ。
さて、些事ながら司馬遼太郎の小さな誤りを指摘する。「海岸には砂丘がつらなり、当時は潟や、河川の氾濫のあとの沼沢にヨシやアシが茂っていた」とあるが、ヨシとアシは同じものだ。(ヨシは)アシの音が「悪し」に通じるのを忌んで「善し」に因んで呼んだものと『広辞苑』にもある。
明治維新の長州の人脈を論じて、
(……)そんな彼(吉田松陰)の膝下から維新の功労者が輩出したのです。高杉晋作、久坂玄瑞、前原一誠、伊藤博文、山形有朋、品川弥二郎と数え上げていけば、そのまま長州革命派の名簿ができそうです。
革命は3種類の人間によってなされるようですね。初動期は詩人的予言者か思想家があらわれます。これは松陰でしょう。多くは、非業の死を遂げます。中期に卓抜な行動家が出て奇策縦横の行動をします。高杉晋作や久坂玄瑞でしょう。彼らも多くの場合、死にます。最後には処置家が出て、大いに栄達します。伊藤博文や山形有朋がそうでしょう。
毎回原稿用紙10枚という短さのなかで、これだけのことを言っている。須藤靖も長く新聞書評を書いてきて、どんなことでも原稿用紙3枚で書けるとうそぶいていたが。