村上春樹『一人称単数』を読む

 村上春樹『一人称単数』(文藝春秋)を読む。春樹はあまり読んでこなかった。特に長篇はちょっと苦手だったが、短篇集は好きだった。

 さて『一人称単数』だが、いつもに比べて淡々とした印象だ。超常現象的なところが少ないし、エッセイのような味わいだ。「ヤクルト・スワローズ詩集」は、村上春樹が若いころ『ヤクルト・スワローズ詩集』という詩集を自費出版したなどと書いている。500部発行したが、それが今では貴重なコレクターズ・アイテムになり、驚くほど高い値段がついているという。これはどこまで本当のことなんだろう。

 「石のまくらに」のヒロインは、付き合っている彼から「おまえは顔はぶすいけど、身体は最高だ」と言われているし、「謝肉祭」の彼女は冒頭で「これまで僕が知り合った中でももっとも醜い女性だった」と紹介される。

 その「謝肉祭」は醜い女性F*と知り合った僕が、共通の趣味であるクラシックのピアノリサイタルに連れ立って出かける話で、しかも二人の一番好きな音楽がシューマンの『謝肉祭』だった。「僕ら」は3人のピアニストが『謝肉祭』を弾くコンサートに足を運び、42枚の『謝肉祭』のレコードやCDを聴いた。二人で42枚の『謝肉祭』を聴き終えた時点で、彼女のベストワンはアルトゥーロ・ベネディッティ・ミケランジェリの演奏であり、僕のベストワンはアルトゥール・ルビンシュタインの演奏だった。

 私はシューマンの「謝肉祭」を特に好んだことはなかったが、これを読んで手許の「謝肉祭」をいくつか聴き比べてみた。結果、F*の言うミケランジェリが一番良かった。「僕」の選んだルビンシュタインは好みではなかった。ほかにアシュケナージが悪くなかったが、クラウディオ・アラウは最も好みから遠かった。

 読み終えて、本書は春樹としては地味であまり売れないんじゃないかと他人事ながら危惧した。

 「ぶすい」女性と言えば、(自分のことを外して)私も2人ほど思い出す女性たちがいる。どちらも私より10歳くらい年上で、一人は亡くなりもう一人は老人介護施設に入っているらしい。二人ともとても前向きな人達で、決して人生を後悔するような一生ではなかったと思う。逆に美しい女性で不幸な人生を歩んだ人の方が多かったような印象がある。