藤森照信+大和ハウス工業総合技術研究所『近代建築そもそも講義』を読む

 藤森照信大和ハウス工業総合技術研究所『近代建築そもそも講義』(新潮新書)を読む。明治以後の日本近代建築の歴史を上下水道から始めて具体的に詳しく語ってくれる。
 東京の防火計画で暗くなった室内に明かりを取り入れるために窓を作りたいが硝子は高価だった。トップライト(天窓)を作り、障子にガラスをはめた。額入障子、硝子入り障子、猫間障子、雪見障子が作られる。
 西郷隆盛の主導で天皇家の衣食住の洋風化を決めた。家には靴のまま上がり、畳の上に座らず、布団で寝ず、和服を着ない。行幸天皇の訪問)を仰ぐために貴族たちは洋館を建てる。和館の隣に応接用の洋館を建てる。それが有力者たちに拡がり、さらに津々浦々まで伝わった。洋館までは手が回らないので、洋館は和館に吸収され、和館の一角に洋風の応接間が作られる。絨毯の上に椅子・テーブルが置かれ、サイドボードが据えられた。サイドボードには洋酒と百科事典が並べられた。洋風の生活と和風の生活を折衷するためにスリッパが採用された。これは日本独自の風習らしい。
 井上馨が銀座を煉瓦街にすることを計画した。その煉瓦作りや設計者のお雇い外国人が紹介される。井上はグラバーのもとでエンジニアとして働いていたウォートルスにその計画を任せる。最初煉瓦はフランス積みだったが、のちイギリス積みに変わる。日本の煉瓦職人は目地の仕上げにもこだわり、日本にしかない蛙股という超特殊目地を発明する。
 洋風建築では石造建築が取り入れられる。橋にアーチが採用される。千葉の富津のノコギリ山から砂岩が房州石と名づけられて採集される。古典系スタイルの記念碑的建築には御影石が使われた。瀬戸内沿岸の御影石の建物で一番は三井銀行神戸支店だという。それについて、

 大学院生時代に初めて訪れた日のことは忘れられない。当時、古典系のスタイルは型にはまって堅苦しいと思っていたが、一本石の柱の前に立ち、下から見上げると、エンタシスの曲線とその上に乗るイオニア式柱頭の渦巻き曲線の二つがあいまって、艶を帯びてエロティックにすら思え、白く硬い石でここまで表現できるものかと、感動を受けた。以後、古典系スタイルを賞味できるように私の目が変わった。
 しかし、1995年の阪神淡路大震災の時、崩壊し、今はない。

 設計者は長野宇平治
 こんな調子でつぎつぎと面白いエピソードが綴られ、建築史が語られる。日本建築界は辰野金吾が作った。辰野は工部大学校でコンドルに学んだ。日本に建築界を作り、その建築界に君臨した辰野の作品はどうか? デザイン力があるわけではなく、同世代の中ではほどほどの腕前と藤森は評する。

……ライバルだった妻木頼黄とくらべると、各部分の視覚的相互関係はバラバラで統一感に乏しい。プロポーションを決める能力が十分ではなかったからだ。

 そして辰野の作った東京駅を例にとって、どこがいけないか具体的に指摘される。
 近代日本建築史の本でありながらとても面白く勉強になった。最後に些事ながら小さな誤りを指摘しておく。P.142にアメリカの下見板は”ユリの木”だったと書き、現在皇居の「桜田門から千鳥ヶ淵にかけたあたりで高く枝を伸ばす真っ直ぐな樹がユリで、」と続けているが、この樹の標準和名は「ユリノキ」だ。それを「ユリの木」と誤解したのだろう。

 

近代建築そもそも講義 (新潮新書)

近代建築そもそも講義 (新潮新書)