松村秀一『ひらかれる建築』を読む

 松村秀一『ひらかれる建築』(ちくま新書)を読む。建築評論家の五十嵐太郎が書評で取り上げていたから(朝日新聞、2016年11月27日)。

 本書はケンチクやタテモノからの卒業をうたう。ケンチクとは建築家の先生が設計する芸術的な作品。一方、タテモノとは経済的な営為から生産される通常の建物。東京のごちゃごちゃな街並みこそが民主主義の風景だと、海外の研究者から指摘されたことを受けて、著者は近代以降の建築の歴史を民主化の3段階でとらえなおす。(中略)
 日本はすでに膨大なタテモノをもち、今や大量の空き家が問題だ。そこで著者は、箱から場へ、あるいは生産者から生活者へ、という転換を示し、使い手の想像力が重要になると説く。小難しいケンチクと違い、リノベーションは専門以外のさまざまな人が参加できるプラットフォームになりうる。これは建築の職能が変わることで豊かな生活がもたらされる希望の書である。

 有名な建築家の設計した建物を語るのがこれまでの建築の本だった。本書は量産されて大多数の人が住んでいる実用的な建築を語っている。まずこの点が新鮮だった。アメリカの車時代を幕開けした量産されたT型フォード、そのような住宅をつくることが、戦後アメリカのレヴィットタウンから始まった。1万数千戸もあるこの街はたった数種類のスタイルの住宅しか建っていない。
 日本では日本住宅公団(現在のUR都市機構)が画一的な公団住宅を建設していった。
 その後住宅メーカー各社が開発して普及していったプレハブ住宅が語られる。現在、住宅は供給過剰になりつつある。

 この風景の歴史的な特異さを数字で見てみよう。住宅を例にとる。高度経済成長の賭場口にあった1963年、政府の住宅統計調査(現在の住宅・土地統計調査)によると、日本には2000万戸を少し超えた数の住宅があった。それは世帯数を少々下回る数だった。ところが、50年後の2013年、同じ調査によれば、日本には6000万戸を超える数の住宅がある。50年前の3倍だ。そして、それは世帯数を800万以上も上回る。国民1人当たり0.48戸も住宅を持っていることになる。戦後の日本にとって豊かさを体現した国に見えていたアメリカの0.43戸(2010年)を遥かに上回る数字だ。(中略)
 それにしても国民1人当たり0.48戸もの「箱」がいるだろうか。

 松村は古いビルをリノベーションしている若者たちの様々な実例を紹介している。「箱」から「場」への転換を示してみせる。仲間をつのってさびれた街を再生する。美術家中村政人が東京都千代田区の廃校になった中学校をアートの場として再生させたアーツ千代田3331など。
 建築について、こんな角度から語られるのがとても新鮮だった。地味な内容だが重要な視点を教えてくれて興味深い内容だった。