佐野眞一『唐牛伝』を読む

 佐野眞一『唐牛伝』(小学館文庫)を読む。副題が「敗者の戦後漂流」となっている。本書は唐牛(かろうじ)健太郎の伝記、唐牛は60年安保当時の全学連委員長だった。全学連は安保改定に激しく反対して連日国会へデモをしかけ、唐牛は警察の装甲車に飛乗りアジ演説をして学生たちをけしかけた。自分も真っ先に装甲車から警官隊の中へ跳び込みそのまま逮捕された。60年安保当時の全学連委員長として半ば伝説の活動家だ。
 当時の全学連主流派は反代々木で、共産党社会党と対立して過激な路線を採っていた。過激なデモを組織し、女子学生樺美智子もデモの渦中で亡くなった。学生たちや大衆の連日のデモにも関わらず安保条約は自然承認された。安保闘争の敗北は反対運動をしていた学生や大衆に大きな挫折感を与えた。退陣した岸内閣に代わって池田勇人内閣が所得倍増政策をうたい、政治の季節から経済の季節に急速に移り変わっていった。
 唐牛が活躍したのはわずか4年間ほどだった。運動後、周囲の仲間たちはそれなりに社会に出て行った。共産党に反対して組織したブントの頭脳と言われた青木昌彦は京大やスタンフォード大学の教授となり、ノーベル経済学賞に最も近い日本人と言われた。西部邁全学連の中央執行委員もつとめたが、のちに保守派の論客として活躍した。柄谷行人はブントの活動家として活躍したのち文芸評論家として成功した。島成郎はブントの書記長時代、北海道大学全学連委員長だった唐牛を見いだし、全学連の委員長に据えた。島は安保後精神科の医師として沖縄の地域医療に貢献した。吉本隆明もブントの支持者だった。
 唐牛が安保闘争に関わっていた期間はわずか2年あまりだった。仲間の活動家たちが大学や社会に転身したのち、ひとり唐牛が堀江謙一とヨット会社を設立したり、新橋で居酒屋を経営したり、北海道で漁師になったり、コンピューター会社のセールスマンや医療法人徳洲会徳田虎雄選挙参謀をしたりした。安保闘争では12カ月の実刑判決を受け、宇津宮刑務所に服役した。
 なぜ唐牛だけが優秀な人間にも関わらず仕事に恵まれることなく半端な仕事に明け暮れなければならなかったのか。著者の佐野は官憲の見せしめのため、就職を妨害し続けたのだという。事実どこへ行っても公安警察が付いて回った。
 だから、実は唐牛の政治や思想に対する影響は大きくはなかった。安保闘争における全学連委員長としての活躍(行動)以外見るべき業績はない。佐野は唐牛伝に文庫版で560ページを費やしている。そしてその内容は実に面白いのだ。唐牛は1984年にがんで47歳の生涯を閉じている。佐野は唐牛の交流関係を徹底して調べていく。芸者だった母の庶子として生まれた唐牛の生涯をどこまでも追っていく。関係者に会い、話を聞きまくる。すると、唐牛を中心にして当時の学生運動の内実や、周辺の動き、政治の裏側などが見えてくる。

 私が唐牛という男に惹かれるのは、誰からもカリスマと持てはやされた全学連委員長時代ではない。むしろ27歳で刑務所を出所したあと、47歳で鬼籍に入るまでの20年間どんな人間と交流し、どのような人生遍歴を歩んだかに関心が向かう。
 強いて言うなら、なぜ彼だけがその後の高度経済成長の波に乗らず、一人だけ60年安保闘争の功罪を背負い込むようにして、短い生涯の幕を閉じたのかに興味がわく。
 すべてのアイドルやスターと同様、唐牛が輝いたのはほんの一瞬だった。ただし、その一瞬はあまりにまばゆい。

 細部までよく調べて書いている。優れた唐牛健太郎伝だと思う。