松本輝夫『谷川雁』を読む

 松本輝夫『谷川雁』(平凡社新書)を読む。副題が「永久工作者の言霊」といい、詩人であり思想家であり、反体制運動家で労働争議活動家、言語教育者、経営者でもあった谷川雁のコンパクトな伝記だ。
 谷川雁については、その魅力的な詩と「原点が存在する」という有名なエッセイの一部を読んだきりだ。谷川の経営したテックという会社で働いていたという平岡正明が、雁は労働運動をしていたくせに労働者を弾圧したとどこかに書いていたのが気になっていた。九州で炭鉱労働者と一緒に運動をしていたとき以来書いていない詩についても、どうしたのだろうと思っていた。それらの疑問が本書を読んでひととおり分かった気がする。
 谷川雁といえば、「天山」の第2連を思い出す。

みんな嘘だ/なかばくずれた修辞の窓から/ありもしない季節が呼んだだけなのだ/認識は放浪のつぎに来た/長い祈祷のあとで/青ざめてゆく森があった/自らのかがやきに撓みながら/村は燃えようとしたが果さなかった

 そして「或る光栄」の初めの数行、

おれは村を知り 道を知り/灰色の時を知った/明るくもなく 暗くもない/ふりつむ雪の宵のような光のなかで/おのれを断罪し 処刑することを知った

 有名な「東京へゆくな」

ふるさとの悪霊どもの歯ぐきから/おれはみつけた 水仙いろした泥の都/波のようにやさしく奇怪な発音で/馬車を売ろう 杉を買おう 革命はこわい
なきはらすきこりの娘は/岩のピアノにむかい/新しい国のうたを立ちのぼらせよ
つまずき こみあげる鉄道のはて/ほしよりもしずかな草刈場で/虚無のからすを追いはらえ
あさはこわれやすいがらすだから/東京へゆくな ふるさとを創れ
おれたちのしりを冷やす苔の客間に/船乗り 百姓 旋盤工 坑夫をまねけ/かぞえきれぬ恥辱 ひとつの眼つき/それこそ羊歯でかくされたこの世の首府
駈けてゆくひずめの内側なのだ

 この「みんな嘘だ/なかばくずれた修辞の窓から/ありもしない季節が呼んだだけなのだ/認識は放浪のつぎに来た」の一節はとりわけ印象深い言葉で、いつも口ずさんでいた。
 谷川には「毛沢東」と題した詩があった。

いなずまが愛している丘/夜明けのかめに
あおじろい水をくむ/そのかおは岩石のようだ
かれの背になだれているもの/死刑場の雪の美しさ
きょうという日をみたし/熔岩のなやみをみたし
あすはまだ深みで鳴っているいるが/同志毛のみみはじっと垂れている
ひとつのこだまが投身する/村のかなしい人達のさけびが
そして老いぼれた水と縄が/かすかなあらしを汲みあげるとき
ひとすじの苦しい光のように/同志毛は立っている

 文化大革命の陰惨な結果を知ったあとでは、この毛沢東への全面的な讃歌を捧げている詩人に疑問を持たざるを得なかった。
 さて、本書に戻る。戦後西日本新聞社に入社する。日本共産党に入党し労働組合書記長に就任する。労働争議で解雇処分。2歳の長男を亡くす。結核で入院。福岡県の中間町(現 中間市)に森崎和江と移住。雑誌『サークル村』創刊。1960年6月安保闘争を機にに日本共産党脱退、翌月除名。大正炭鉱閉鎖をめぐって大正行動隊結成。泥沼的争議が経済的要件の獲得の方向で収束する。森崎和江とも別れ、筑豊を去って東京へ行く。
 東京では株式会社テックに開発部長として入社。テックはのちラボ教育センターと社名変更。常務理事から最後は専務理事になる。最初期の英語教育会社で言語教育に力を入れた。子供向けの物語テープ制作、雁は物語の創作に力を入れた。しかし会社は創立後まもなく労働争議が頻発し、しかも何年も争議が続いた。著者松本は雁を慕ってテックに入社したが、組合運動に関わったとして雁に疎まれ、(東大出なのに)印刷工に左遷される。雁はのち、創業者の息子である社長と対立し、1980年退社する。勤続15年だった。
 ラボ退社後、「(宮沢)賢治のもとに集まろう」「賢治への旅」を合言葉とする「ものがたり文化の会」を立ちあげる。宮沢賢治柳田国男を高く評価する。1995年肺癌で死去、享年71歳。民俗学者谷川健一は兄だった。
 大正炭鉱廃坑をめぐって炭鉱労働者を組織し、会社側と果敢に闘った谷川雁は、テックの経営陣に収まったとき労働組合を弾圧する。それはなぜなのか。やはりテックに勤めて労働運動をし、雁を烈しく糾弾した平岡正明について松本は書く。

 なお平岡のテックにかかわる雁批判に関連しては、かつて「自立学校」などで平岡の仲間でもあったらしい森秀人が「革命ゴッコよろしく間に合わせの組合運動で、谷川雁を叩いて喜んだ児戯さながらの平岡正明なんぞとは、わたしはいっさい無縁である。あのまやかしの組合運動で利を得たのは平岡ただ一人だった」(『実録 我が草莽伝』)と書いているのを紹介しておけば充分だろう。

 平岡については、『山口百恵は菩薩である』ほか何冊か読んだ経験から、森秀人の批判はその通りだろうと思う。
 読みおえて、小著ながら谷川雁について簡潔に総括していると思った。そして今回40年ぶりに谷川雁の詩を読み直してみて、昔あんなに夢中になった雁の詩句が色あせてしまっているのを感じた。
 著者松本はラボ教育センターの会長まで務めたのち、退社後「谷川雁研究会」を起こして代表に就任している。雁を批判しつつ、十分な敬意を捧げていることが本書を読めばよく分かる。ただ私は読後、以前のような敬意を雁に対して感じることができない。それは田村隆一のでたらめとも言える生活を知ったのちも、田村に対する敬意が何ら影響されなかったことと正反対のことだった。良い本を読むことができた。


新書735谷川雁 (平凡社新書)

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谷川雁詩集 (1968年) (現代詩文庫)

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