田中穣『生きる描く愛する』を読む

 田中穣『生きる描く愛する』(婦人之友社)を読む。副題が「42人の名画家物語」とあり、42人の著名画家の作品1点を選びその画家について紹介している。本書は『婦人之友』に平成10年から17年にかけて連載したもの。田中は1925年生まれの美術評論家で長く読売新聞美術記者を務めていた。
 取り上げられた画家たちは芸術院会員だったり文化勲章を受章しているなど、まさに著名な大御所と呼ばれるにふさわしい人たちだ。ベテラン記者が書いていることもあって、実際に彼らに会ったりインタビューを試みたりもしている。参考資料を見ながら書いているのではなく、画家本人を見つづけて書いている印象だ。そういう意味で教えられることが多く、画家同士の交友関係や師弟関係なども書かれていて参考になる。
 ただ、基本的な姿勢が画家たちの顕彰にあるようで、決して批判することなく、取り上げられたすべての画家が優れた画家とされているのがやや不満だった。
 東山魁夷について書かれた文章。

 冒頭に触れた名作「道」で名をなすことになる、昭和25年(1950)の春先のこと。東山さんは、秋の日展の構想を練りながら、画学生時代の写生帳をなんというあてもなくめくっていたとき。ふと、一筋の道を描いたスケッチが目にとまった。青森県の八戸に近い種差海岸の、牧場の取材であった。画面の正面に灯台の見える丘をおき、手前に放牧の馬と柵とに沿って大きくひろがる道を描いた、絵としては変哲もない写生でしかなかった。にもかかわらず、東山さんは、もう一度スケッチしたその場所に立ってみたい気がした。早速、十数年ぶりに再訪した道は、国破れても変わらずに、そこにあった。露にぬれた野の草の緑がすがすがしく、やや上がり気味に遠く右に折れて低い丘につづく朝の道は、希望に満ちていた。これから着実に一歩一歩踏みしめてゆかねばならぬ東山さん自身の、“人生の道”そのままに見えた。敗戦の絶望から徐々に立ち上がりつつあった新生“日本の道”も、こうありたい願いも込めて、東山さんは、市川(千葉県)の自宅に戻ると、一気にあの「道」を描き上げた。昔どおりにそこにあった灯台も、放牧の馬や柵も画面からはぶき、構図と色彩をシャープに単純化して、例えば靴で歩いても安心して通り抜けられるほど堅固な造形性を備えた洋風日本画の戦後第1号を、見事に完成していたのだ。

 ふーっ、田中さん盛り過ぎ! 「単純」だが「造形性」という言葉がふさわしいとは到底思えない。会田誠がおちょくったパロディの「あぜ道」を思い出す。

東山魁夷「道」

会田誠「あぜ道」



生きる描く愛する―四十二人の名画家物語

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