山本弘へのオマージュ

 もう40年近く前になるが、『山本弘遺作画集』に菅沼秀雄さんが「山本弘へのオマージュ」と題して追悼文を寄稿してくれた。菅沼さんは山本の小学校の同級生。私が紹介されたとき、魚問屋の専務だった。

 以下、菅沼秀雄さんの投稿全文。

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 小学校が山本弘との出逢いの最初の場所である。当時クラスには図画の両雄に君と田中昇君とがいた。一方は後年の数学者を約束するように、理知的で明るい画風の水彩に秀で、君はやゝ暗色の勝ったどこか不安をただよわせるクレヨン・パステル・鉛筆画に特徴があった。その頃の私は校外での写生の時間を、たいてい何れかの驥尾に附して過したようである。

 昭和18年、お互いに別々の道に進んで交友が中断した後、戦後の22年あの大火の年、長沼計司君を交えて旧交が復活した時、君はすでに画業専心の画学生であり、ボヘミアン気取りの酒徒の片鱗をのぞかせていて、旧制高校生になったばかりでまだ純心白面の私を大いに驚倒させたものだ。それ以後、絵画を・文学を・哲学を熱っぽく語り合う私達の青春の濃厚な交情が暫く続くことになるのだが、そうした青春の日々とはっきり一線を画するような形で長沼君と私が社会人となってから、やがて則かず離れずながらもそのつき合いが徐々に疎遠に傾いていったのは致し方ない。現在私が、少なからぬ画集や画論美術書の類いを蔵するに至ったのはこの交友により触発されたものである。

 山本弘を想う時、私は何故かエゴン・シーレを思い浮かべる。この恵まれぬ廿八年の生涯を第1次大戦終結の年にその師クリムトとあい前後して閉じたオーストリアのドイツ人画家について、生前君は語ることはなかった。悲劇的な死を選んだ君と貧弱な肉体を多く描いた夭折のシーレとが重なり合って、私にその連想を促したのかもしれぬが君にはシーレと連携する何か芸術的共通性が存在するような気がしてならないのだ。-その解明はこの限られた紙面では許されないので、今後の私の課題としておこう。

 ところで、人が死んだ後はたしてその充全な人間像は残るものだろうか。戸籍に登録された記録や余人の記す回想文などがその生の一面を伝えるにしても、それはかえって故人の生の真実を覆い歪めついには抹殺さえもしかねない。多義的な人生を言葉の断定的指示性によって歪曲化する危険である。それ自体多義的表現である絵画作品によって自己を遺すことのできた君はその点全く幸運であった。作品が時と所を超えて様ざまに語りかける君の生は死後まずます豊穣さを加えることだろう。おそらく自己のアイデンティフィケーションを果たさぬことへのもどかしさ故に自死した君―とは云え五十台半ばにしてなお一介の書狂生としての日々を送るに過ぎぬ私に比ぶればひたむきに自己探求を続けた君-の遺作の数々は今後私達が君を読み解くための大いなる宝庫となるはずだ。そこにはセザンヌゴッホゴーギャンも、ドラン・マチス・ドンゲンも軽快なデュフィもマルク・キルヒナーの表現主義も土俗のノルデも荘厳なルオーもピカソシャガール・カンディンスキもスーチン・モディリアニ・クレーも神経質なビュッフェも岸田劉生も更には屈託のない南画までも君の取り込んだ美質の全てが君流にデフォルメされて君のマニエールの中に封じられている。私には君のこの豊かな遺作の埋没と散逸を深く恐れるものだ。それらが世に広まると共に又その所在が常に確かめられるようにと願うこと切なるものがある。

 夢の四馬路(スマロ)か/虹口(ホンキユ)の街か/嗚波の音にも/

 今、私の耳にはかつての青春時代の君の唄声が音節をはっきりと区切った確かな唄いぶりで聞こえてくる。それは君に似てか似ずか、低音をひびかせ高音の程よく抑制された聞きほれるほどの美声なのである。            (同級生)