滝川留未子『画家 滝川太郎』を読む

 滝川留未子『画家 滝川太郎』(遊人工房)を読む。滝川留未子は滝川太郎の息子の嫁にあたる。その滝川太郎は最も有名な西洋絵画の贋作者。嫁である留未子が太郎の汚名をそそごうと本書を書いた。

 留未子は太郎の手記など引用して、太郎は贋作に関わっていないことを主張している。しかし、それには説得力が乏しい。

 

……滝川太郎も誤解を招く言動が多い。酒をこよなく愛し、飲むと大ぼらをふく。いや、しらふの時でさえふざけ、人をからかう癖を思い出す。(中略)

 しらふでも、この有りさま。飲んでいれば限度がない。どんどん拍車がかかり歯止めがきかない。いい例が昭和58年(1983)の「芸術新潮」7月号、田中穣氏の「泰西名画を飾った〈滝川製〉マチスなど」の文中にある。

滝川太郎脳梗塞で倒れてから移り住んだ逗子に、酒をもって訪ねた。そこで「久保さんの言われているように、あなたは200点もの名画をかかれたのですか」と尋ねると『200どころかもっと多い(中略)』と語った」

 このように脳梗塞で倒れたあとも飲んでは人をからかった。

 

 滝川太郎印象派の画家の贋作をたくさん作り、それを久保貞次郎に売り、久保は国立西洋美術館へ納入している。いったんは本物と信じて収蔵した西洋美術館だが、その後展示はしていない。

 本書と一緒に、『芸術新潮』1991年11月号「特集 贋作戦後美術史」も見た。滝川太郎の描いたとされるたくさんの「名画」が載っている。スゴンザック、ドニ、ドガマティスセザンヌシャガールユトリロ、ルソー、ピカソモディリアーニなどなど。

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芸術新潮1991年11月号

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芸術新潮1991年11月号


 滝川太郎松本市出身で、晩年は松本で過ごしている。松本周辺には今でもときどき滝川太郎の油彩(自分の名前で発表している)が画廊に並ぶようだ。私の知人も2点持っていてみせてもらった。

 実はわが師山本弘は若いころ、中野区の滝川太郎のところに住み込みで弟子入りしていたことがあって、人使いが荒くて爪が擦り切れるくらい墨を磨らされて逃げ出したと言っていた。

 なお、嫁が舅の擁護で本書を書いたのは、夫である太郎の息子鯉吉がフランス育ちで、日本語は話せるのに日本語の読み書きができないためだという。